小金原鹿狩とは 6万人が動員された嘉永期の一大イベント

嘉永2年3月18日(1849年4月10日)に下総国小金原で江戸幕府を通じて4度目となる鹿狩(ししがり)が挙行されました。最初の2回は徳川吉宗の御代に、3度目は徳川家斉の御代に挙行され、4度目の嘉永2年の猪狩は徳川家慶が挙行しています。合計で6万人以上が動員された一大イベントで、異国船の頻出で失墜しつつある幕威の発揚を企図して実施されました。その概要を国立公文書館でデジタルデータが公開されている『大狩盛典』や『小金野鹿狩之記』などの記述をもとに紹介します。

事前準備と御狩場までの行軍

事前の準備として前年の嘉永元年から、狩猟の獲物となる鹿や猪を追い立てる「勢子」の役割を務める与力や同心を率いる番方がその動きを習得し、嘉永2年2月16日(1849年3月10日)に老中阿部正弘と若年寄大岡忠固が、目黒村駒場野において実施された予行演習を視察しています。さらに嘉永2年2月27日(1849年3月21日)には将軍徳川家慶の上覧もありました。鹿狩の前日になると御狩場の各備に布陣する番方や目付と本陣随従者のうち中奥小姓と中奥番の諸隊が千住と深川に参集し、千住からは松戸経由で、深川からは市川経由で、辰刻~午刻(午前7時~午後1時)にかけて、御狩場に向けて続々と出立していきました。

先発した諸隊の内「追駈騎馬」「駈騎馬」「歩行勢子」「立切勢子」などとして動員された五番方をはじめとする番士たちは御狩場から26町(約2.6キロメートル)隔てた川越新田の南ヶ岡という場所に着陣します。ここに休息所として建てられていた30棟の小屋に入り、出陣の合図を待ちました。その後、将軍の到着を迎えるため、丑刻(深夜2時ごろ)から一番貝を合図に出陣の身支度を整え始め、二番貝で騎馬の準備をし、三番貝で追駈騎馬の部隊が出陣、四番貝で駈騎馬の部隊が出陣、五番貝で「御立場向備」に布陣する各組が出陣、六番貝で「御立場右備」に布陣する大番、書院番、小姓組の歩行勢子が出陣、七番貝で「御立場左備」に布陣する新番、小十人組、徒組などが出陣し狩場に向かいました。これらの部隊の編制は、後述する「各備の陣容」の中で詳しく紹介します。

次に将軍徳川家慶の動向を追いかけてみましょう。子刻(深夜0時ごろ)に江戸城を出発し、両国橋付近から大川御座と名付けられた船に乗り、大川(隅田川)を上流に向かいます。丑刻(深夜2時ごろ)千住宿で下船し、そこからは陸路を行きますが、途中の新川と江戸川には橋を架けて渡りました。金町関で江戸川を越えると休憩所としていた松戸宿の松龍寺に卯刻(午前6時ごろ)に入り、ここで田安慶頼・一橋慶喜と合流しました。食事をとった後、辰刻少し早きころ(午前7時ごろか)に出立し、狩場である小金原に辰刻さかり(午前9時ごろか)に到着しました。この将軍徳川家慶を擁する本陣の主な随従者を以下に列挙します。

本陣随従者

御三卿 田安慶頼 家老 松平近韶

御三卿 一橋慶喜 家老 曲淵景山

老中 阿部正弘(大名)

若年寄 大岡忠固(大名) 本多忠徳(大名) 遠藤胤統(大名)

側衆 本郷泰固(御用取次) 竹本正懋 岡部長富 小笠原信名

小姓組番頭格御用取次見習 平岡道弘

大目付 柳生久包

新番頭格奥勤 川口信成 杉浦勝義

小姓 薬師寺元眞 糟屋義明 柴田摂津守 竹本正明 柴田勝彌 河尻鎮長 荒尾成允 山名豊展 高木守雄 永田豊後守 太田林幸 平岡頼啓 諏訪安房守 三上季温 神保長興 岡部長常 小笠原信学 竹本正路 能勢相模守 稲生正行 菅谷政敏 吉川対馬守

中奥小姓 大久保忠順 岡部長寛 大久保忠摸 高井道致 佐野政知 柴田勝全 石河貞明 戸田氏寿 久永章譽 酒井忠行 横田春松 小笠原長常 新見正興 土岐朝佐 松平正孝 菅沼左京

中奥番 折井義孝 内藤甚十郎 渡辺兵部 小菅内匠 三枝左兵衛 太田資泉 関盛章 松平康人 斎藤左衛門

小納戸 朝比奈昌寿(頭取) 青山長賢 和田惟明 鈴木栄二郎 岡松久徴 吉川従縄 大久保忠寛 竹内五六左衛門 永田正寅 入江清兵衛 宮城政矩 中山藤一郎 江原親長 山木五郎左衛門 小浜隆寿 建部卯之助 松平田宮 井関親賢 松平九郎左衛門 志村鉄太郎 朝倉俊徳 島田十左衛門 興津房精 秋山兵三郎 菅沼三五郎 多賀三右衛門 服部七五郎 小倉熊太郎 福山小膳次 朝岡興貞 近藤七郎右衛門 朝比奈兵八郎 荒尾平八郎 鵜殿長徳 須田盛教 渡辺栄五郎 角南栄之丞 江原孫三郎 佐々木三蔵 鈴木多膳 千村千万太郎 武田甚五郎 臼井内記 小笠原広業 渡辺孝綱 松平近豊 田中唯一 依田半之助 加藤源左衛門 河原清次郎 青木寅之助 天野正猷

目付 本多安栄 戸川安鎮 大沢乗哲 松平乗利 遠山則訓

使番 松平乗豪 久留正好 黒田直良 永見為忠

徒頭 山川安左衛門

小十人頭 松崎広茂

船手頭 向井正道 向井源次郎(見習)

鷹匠頭 内山永金

各備の陣容

図は明治期に描かれた錦絵『千代田之御表』(都立中央図書館蔵)で確認できる小金野鹿狩の「御立場」の様子です。この「御立場」は将軍の御座所として築かれた高台で、底面16間(約29メートル)四方、高さ2丈(約6メートル)、上面8間(約15メートル)四方ありました。葵の御紋が赤く染め抜かれている白の吹貫が立てられている最上段に畳8畳の小屋が設えられ、ここから将軍が鹿狩の様子を上覧しました。将軍から見て右の中段には御三卿用の小屋(向かって左の茶色の屋根がある小屋)が設えられ、将軍から見て左の中段には老中、若年寄、側衆用の幕(向かって右の青い幕)が張られました。

図は『大狩盛典』に掲載されている「嘉永小金狩場之図」(国立公文書館蔵)です。上が北になるように回転して掲載しています。左側に黄色い八角形で描かれているのが将軍の御座所である「御立場」です。御狩場での布陣についてこの「御立場」の将軍の視点で左側を「御立場左備」右側を「御立場右備」正面を「御立場向備」というように区別して説明します。

まず「御立場左備」を見てみましょう。「御立場」の北から東にかけてのびているのは「竹柵」で、その前4か所に「萱垣」という垣が設えられています。「萱垣」の前に本陣随従者のうち騎射をする小姓、小納戸、中奥小姓、中奥番、鷹匠頭など68騎が布陣しました。「竹柵」の途切れた辺りから右に黒色の三角形が並んでいますが、この辺りに新番、小十人組、鷹匠・御庭番、徒組などが「立切勢子」として布陣しました。さらに右側に黄色く描かれているのは「驚し網」と呼ばれた網です。この「驚し網」の前に黒い丸で描かれているのが、小姓組から選ばれた「駈騎馬」です。

次に「御立場右備」を見てみます。「御立場」の南にのびている網からさらに南に100間(約181メートル)離れた辺りに黒い三角形が横一列に並んでいますが、ここには小姓組、書院番、大番の「歩行勢子」が布陣しました。網との間に描かれている黒丸は合図で押し出す際の布陣場所です。こちら側の「驚し網」の前に黒い丸で描かれているのが、書院番から選ばれた「駈騎馬」です。

最後に「御立場向備」を見てみます。たくさんの黒い三角形や丸が描かれていますが、これらは百人組、持組、先手組の陣です。最初は一番右側の列(屯所止)に布陣し、合図で真ん中の「一の寄」や左側の「二の寄」の列まで押し出します。「屯所止」と「一の寄」の間に比較的大きな黒い三角形で描かれているのが、使番が大番、書院番、小姓組の番士を率いた「追駈騎馬」の布陣場所となります。下記に実際に各備に布陣した主な旗本を紹介します。これを見ると大番は全12組中6組、両番は各10組中6組、新番は8組中3組、小十人組は11組中5組が出陣していますので、この鹿狩が五番方のおよそ半分が動員されるという大規模な行事だったことがわかります。

御立場左備の編制

新番組(三組)

 新番頭水野忠一 新番頭大久保忠恒 新番頭山口直養

小十人組(五組)

 小十人頭宮崎成身 小十人頭内藤伊予守 小十人頭川窪信順 小十人頭松前広茂 小十人頭金田房直

鷹匠・御庭番

 鷹匠頭戸田勝行 鷹匠頭戸田久次郎 鷹匠頭内山伊兵衛

徒組(五組)

 徒頭平塚善次郎 徒頭遠山景簒 徒頭町野清典 徒頭男谷信友 徒頭松平定節

駈騎馬

 小姓組番頭土岐朝昌 組頭市岡正寿 小姓組番頭近藤是用 組頭瀬名傳右衛門 小姓組番頭坪内保之 組頭今福勝巳

御立場右備の編制

小姓組(六組)

 小姓組番頭跡部良弼 組頭竹川明美 小姓組坪内保之組番士

 西丸小姓組番頭大島義彬 組頭小笠原政広 小姓組近藤是用組番士

 西丸小姓組番頭大岡清謙 組頭松崎政道 小姓組土岐朝昌組番士

使番本多正応

書院番(六組)

 書院番頭室賀正発 組頭瀬名貞固 書院番逸見長道組番士

 西丸書院番頭斎藤三宜 組頭高島兼次 書院番関盛泰組番士

 西丸書院番頭秋田季穀 組頭万年弥一郎 書院番加藤泰彦組番士

使番松平康正

大番組(六組)

 大番頭近藤致用 大番頭大岡忠固(大名) 大番頭遠山景高 大番頭稲葉正巳(大名) 大番頭土岐頼旨 大番頭鍋島直孝

目付松本穀実

駈騎馬

 書院番頭加藤泰彦 組頭小栗政長 書院番頭関盛泰 組頭小倉政行 書院番頭逸見長道 組頭内藤平十郎

御立場向備の編制

百人組(二組)

 百人組之頭戸田光武 百人組之頭白須政偆

持組(二組)

 持筒頭佐々木一陽 持筒頭小栗忠高

先手組(十二組)

 先手鉄砲頭野間正国 先手鉄砲頭堀利邦 先手鉄砲頭水谷勝得 先手鉄砲頭紅林長之

 先手鉄砲頭小出英照 先手弓頭小笠原持暠 先手鉄砲頭戸塚忠栄 先手鉄砲頭金田正誼

 先手鉄砲頭本多成孚 先手弓頭米津政彬 先手鉄砲頭能勢頼常 先手鉄砲頭本多利庸

目付戸田氏著

追駈騎馬:使番(十名四組)

 一ノ組合(右方) 使番戸川達本 使番仁木守約

 二ノ組合(右方) 使番一色直温 使番酒井忠堅 使番滝川元以

 三ノ組合(左方) 使番稲垣見年 使番土方勝敬 使番水野忠徳

 四ノ組合(左方) 使番大久保忠孝 使番細井勝貞

鹿狩の開始から江戸帰城まで

図は『大狩盛典』に掲載されている「嘉永小金御狩場全図」(国立公文書館蔵)です。先に紹介した布陣図に武者の姿を描き込んだ図になります。やはり北が上になるように回転して掲載しました。ここからは鹿狩開始から江戸帰城までの流れを見てみます。

まず、巳の刻(午前10時頃か)に御立場のすぐ横の萱垣辺りに布陣している鉄砲方が大筒(おおづつ)を2回、さらに5回放ち、合計7回の砲声を合図に向備の16組がそれぞれ5挺ずつ帯同していた鉄砲全80挺を一斉に放って応答し、「一の寄」まで押し出します。続いて狩場の外を包囲している武蔵・上総・下総・常陸の16郡から集められた、およそ6万人の「勢子」たち(図にも描かれています)が一斉に鉄砲、法螺貝で応じ、鯨波を上げながら三度詰め寄ります。次に左備の組頭たちが組の者を従えて獲物を追い立てます。続いて向備が「ニの寄」まで押し出し、後方に備えていた「追駈騎馬」が左右に展開して、さらに獲物を追い立てます。このようにして御立場の前に設えられた四本の松で囲われた「四本松」と呼ばれる区域に追い込まれた獲物に対して、御立場横の萱垣前に布陣していた騎射の者たちが我先にと矢を射かけて獲物をしとめていきます。

騎射の者たちの狩が一段落すると、法螺貝が吹かれ、これを合図に右備のうち大番頭がゆっくりと序ノ太鼓を打たせ、それに合わせて中寄まで大番の「歩行勢子」たちが押し出します。次に大麾(大きな指図旗)が振られると、大番頭は間隔の短い急太鼓を打たせ、それに合わせて大番の「歩行勢子」たちが「網際」まで押し出します。網には滑車が付いていて、これを御庭番が引き上げると網の外に獲物が出てきますので、大番の「歩行勢子」たちは5人1組になって、鎗で獲物をしとめていきます。再び大麾が振られると大番は引き上げ、次に書院番が同様に鎗働きをし、続いて小姓組が鎗働きをし、次に再度大番が鎗働きをし、入れ替わりを繰り返します。この間、駈騎馬は網際まで獲物を追い立てます。やがて将軍徳川家慶も老中阿部正弘や若年寄大岡忠固などを従えて網際まで出陣してきて、自ら兎を2羽しとめたといいます。時刻は午の刻過ぎ(午後1時頃か)になっていましたが、家慶が御立場に引き上げると御場済之相図の大筒が7回つるべ打ちに鳴らされて、各備は南ヶ岡の陣屋に引き上げていきます。このように大筒、鉄砲、法螺貝、大麾の合図に合わせて騎馬や徒士の番方などが、進軍や帰陣の動きを実演することで、鹿狩が軍事演習の役割も果たしていたと考えられます。

御立場に引き上げた将軍は食事をとる際に、老中阿部正弘を呼び、鹿狩の準備を滞りなく整えたことに対する褒美として着ていた衣を授けました。阿部正弘はこの衣を着て帰府しました。将軍徳川家慶は未の刻(午後2時頃か)に御立場の下に駕籠を呼び寄せて出立し、亥の刻過ぎる頃(午後11時頃か)に江戸城に帰城し小金原鹿狩は終了となります。図は明治期に描かれた錦絵『千代田之御表/小金原鹿狩引揚ノ図』(都立中央図書館蔵)です。中央の騎乗の武者の背中には立浪が描かれているのが見て取れます。これは小栗家の家紋なので、小金原鹿狩の御立場向備に持筒頭として参加していた小栗忠高小栗忠順の実父)の帰路を描いているのかもしれません。