山口直毅

『江戸切絵図』小川町/慶応元年より抜粋、「山口信濃守」表記区画を直毅の屋敷地と推定。昌平黌学問吟味乙科及第(嘉永6年)。家禄2500石

幕府の最期を看取った外国・会計総裁

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
安政7年1月11日1860年2月2日使番五郎次郎高2500石
万延元年12月1日1861年1月11日目付甚兵衛
文久元年3月24日1861年5月3日目付甚兵衛箱館派遣
文久2年閏8月27日1862年10月20日目付甚兵衛上洛御用
文久2年9月28日1862年11月19日目付信濃守諸大夫
文久3年3月12日1863年4月29日講武所奉行並/騎兵奉行信濃守
文久3年5月1日1863年6月16日神奈川奉行信濃守
文久3年6月24日1863年8月8日寄合信濃守御役御免
文久3年7月12日1863年8月25日作事奉行格目付信濃守勝手掛、外国掛
文久3年7月29日1863年9月11日寄合信濃守御役御免
元治元年6月24日1864年7月27日目付信濃守
元治元年8月11日1864年9月11日作事奉行格目付信濃守
元治元年10月13日1864年11月12日作事奉行格目付駿河守遠山信濃守が若年寄
元治元年11月11日1864年12月9日作事奉行格目付駿河守松岡伊豆守長州付添
慶応元年4月28日1865年5月22日外国奉行駿河守席次是迄通
慶応元年9月17日1865年11月5日大目付/外国奉行駿河守
慶応元年11月2日1865年12月19日江戸町奉行(南)/外国奉行駿河守
慶応2年8月5日1866年9月13日歩兵奉行駿河守
慶応2年11月4日1866年12月10日騎兵奉行駿河守
慶応2年12月3日1867年1月8日陸軍奉行並駿河守
慶応3年6月5日1867年7月6日陸軍奉行並/外国奉行駿河守
慶応3年6月28日1867年7月29日外国総奉行駿河守
慶応4年1月28日1868年2月21日外国総裁駿河守
慶応4年2月8日1868年3月1日会計総裁駿河守
他に泉処と号す

屋敷地推定

別地屋敷地

『江戸切絵図』大名小路/慶応元年より抜粋、「南町御奉行所 山口駿河守」表記区画を直毅の屋敷地(南町役屋舗)と推定。同区画は嘉永2年の『江戸切絵図』では「南町御奉行御役屋敷 遠山左衛門尉」(遠山景元)表記、安政7年の『江戸切絵図』では「南町御奉行御役屋敷 池田播磨守」(池田頼方)表記、文久3年の『江戸切絵図』では「南町御奉行所 佐々木信濃守」(佐々木顕発)表記となっている

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/慶応2年)外国奉行より抜粋

直亮は直毅の別名

家紋は山口撫子

史跡

蓮光寺にある墓碑

命日は明治28年12月10日(1895年12月10日)