黒川盛泰

『江戸切絵図』日本橋/安政6年より抜粋、「豊後守」は盛泰の父の通称表記ではあるが、下記補足資料『御府内沿革図書』では文久3年の同区画に「黒川備中守」表記となっている。嘉永6年には盛泰が家督を継いでいることから『江戸切絵図』の表記は更新漏れの可能性が高いと推定し、「黒川豊後守」表記区画を盛泰の屋敷地と推定。家禄は1600石

主に役方要職を歴任して留守居まで昇進

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
天保10年1月13日1839年2月26日西丸小納戸與次郎内匠伜
天保12年3月23日1841年5月13日小納戸内匠
天保12年5月15日1841年7月3日小納戸(家定公)内匠
嘉永6年9月16日1853年10月18日小納戸家督
嘉永6年9月22日1853年10月24日小納戸左門
嘉永6年10月8日1853年11月8日使番左中高1600石
安政2年8月11日1855年9月21日使番/火事場見廻左中
安政3年12月1日1856年12月27日西丸目付左中
安政5年2月30日1858年4月13日目付左中
安政6年11月6日1859年11月29日目付左中本丸普請用掛
万延元年12月14日1861年1月24日目付左中日普修好通商条約調印(全権)
万延元年12月24日1861年2月3日目付備中守諸大夫
文久元年5月28日1861年7月5日江戸町奉行備中守
文久2年閏8月25日1862年10月18日小姓組番頭(四番組)備中守
文久2年11月23日1863年1月12日寄合備中守御役御免、差控
元治元年7月12日1864年8月13日講武所奉行並近江守高1600石
元治元年7月23日1864年8月24日歩兵奉行/講武所奉行並近江守
元治元年9月28日1864年10月28日大目付/講武所奉行並近江守
元治2年1月9日1865年2月4日勘定奉行(公)/大目付/講武所奉行並近江守
慶応2年11月18日1866年12月24日勘定奉行/大目付近江守
慶応3年8月13日1867年9月10日松蔭御役御免、隠居
慶応4年1月10日1868年2月3日江戸町奉行松蔭
慶応4年3月5日1868年3月28日留守居近江守
慶応4年3月22日1868年4月14日近江守

屋敷地推定

屋敷地推定補足

出典:東京市 編『御府内沿革図書』第一篇下,東京市. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3436304 (参照 2024-06-29)

同地の文久3年の『御府内沿革図書』に「黒川備中守」と盛泰の表記が確認できるため、同地を盛泰の屋敷地と推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/元治2年)大目付より抜粋

家紋は丸に揚羽蝶

花押

[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[2],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552687 (参照 2024-08-04)