京極高朗

『江戸切絵図』本郷/万延2年より抜粋、「京極兵庫」表記区画を高朗の屋敷地と推定。家禄は2000石→2200石。滝川具挙は実兄

文久遣欧使節の目付として重責を果たす

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
安政6年1月11日1859年2月13日使番啓之助高2000石
万延元年12月1日1861年1月11日目付兵庫勝手掛、外国掛
文久元年3月24日1861年5月3日目付兵庫遣欧使節目付を拝命
文久元年5月4日1861年6月11日目付能登守諸大夫
文久元年12月22日1862年1月21日目付能登守品川出港
文久2年12月11日1863年1月30日目付能登守帰国
文久2年12月29日1863年2月17日目付能登守渡欧褒賞、200石加増
文久3年4月23日1863年6月9日寄合能登守辞任
文久3年5月16日1863年7月1日神奈川奉行能登守
文久3年9月8日1863年10月20日長崎奉行能登守
文久3年11月28日1864年1月7日騎兵奉行能登守
元治元年6月24日1864年7月27日目付能登守勝手掛、席次是迄通
元治元年7月6日1864年8月7日目付越前守本多能登守が若年寄
元治元年8月11日1864年9月11日大目付越前守
元治元年10月29日1864年11月28日越前守

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『袖玉武鑑』(須原屋/文久3年)騎兵奉行より抜粋

家紋は隅立て四ツ目

史跡

海蔵寺にある墓碑

命日は元治元年10月29日(1864年11月28日)

肖像

出典:『幕末名家寫眞集』第[1]集,[書写者不明],[19–]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2575328 (参照 2024-05-31)

出典:『大日本名家肖像集』,経済雑誌社,1907. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1875517 (参照 2024-06-06)