跡部良弼

『江戸切絵図』本郷/安政4年より抜粋、「跡部甲斐守」表記区画を良弼の屋敷地と推定。家禄は2500石→3137石

伊達公を本陣退去させた豪胆な旗本

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
文政6年3月29日1823年5月9日中奥番季十郎家禄2500石
文政8年1月11日1828年2月28日使番季十郎
文政11年2月1日1828年3月16日使番/火事場見廻季十郎
文政13年3月12日1830年4月4日駿府町奉行大膳
天保4年8月12日1833年9月25日堺奉行大膳/山城守
天保7年4月24日1836年6月7日大坂町奉行(東)山城守
天保8年6月15日1837年7月17日大坂町奉行山城守願通呼高637石、家禄3137石
天保10年9月10日1839年10月16日大目付信濃守神尾山城守が同役
天保12年6月13日1841年7月30日大目付能登守真田信濃守が老中
天保12年12月8日1842年1月19日勘定奉行(公)能登守
天保13年2月19日1842年3月30日勘定奉行能登守道中奉行兼帯、日光山参詣御用掛
天保15年9月15日1844年10月26日江戸町奉行(南)能登守
弘化2年3月15日1845年4月21日小姓組番頭(一番組)能登守
嘉永4年3月24日1851年4月25日留守居甲斐守蜷川能登守が同役
安政2年2月5日1855年3月22日留守居/講武所総裁甲斐守
安政2年8月9日1855年9月19日大目付甲斐守席次足高是迄通
安政3年10月20日1856年11月17日大目付甲斐守外国貿易取調掛
安政3年11月18日1856年12月15日江戸町奉行(北)甲斐守席次足高是迄通
安政5年5月24日1858年7月4日元清水附支配甲斐守席次足高是迄通
万延元年9月7日1860年10月20日留守居伊賀守池田甲斐守が同役
文久2年8月24日1862年9月17日側衆/留守居伊賀守
文久3年7月12日1863年8月25日側衆伊賀守御用取次
元治元年6月23日1864年7月26日菊間縁頬詰伊賀守御役御免
元治元年11月19日1865年12月9日留守居伊賀守上席
慶応元年10月22日1865年12月9日留守居遠江守板倉伊賀守が老中
慶応4年2月26日1868年3月19日若年寄遠江守
慶応4年3月3日1868年3月26日菊間縁頬詰遠江守御役御免

屋敷地推定

武鑑記載家紋

家紋は丸に三階菱

花押

[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[1],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552686 (参照 2024-08-03)

史跡

玉窓寺にある墓碑

命日は明治元年12月20日(1869年2月1日)

肖像

出典:岡田霞船 編『徳川義臣伝 : 明治戦記』甲,金松堂,明16.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/778458 (参照 2024-06-01)