石谷穆清

『江戸切絵図』外桜田/嘉永3年より抜粋、「石ヶ谷鉄之亟」表記区画を穆清の屋敷地と推定。家禄は2500石

安政の大獄の五手掛の一人

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
天保8年1月11日1837年2月15日使番鉄之丞高2500石
天保14年2月19日1843年3月19日使番/見廻鉄之丞
天保15年9月10日1844年10月21日目付鉄之丞勝手掛
嘉永2年12月24日1850年2月5日堺奉行鉄之丞
嘉永2年12月25日1850年2月6日堺奉行因幡守諸大夫
嘉永5年5月19日1852年7月6日大坂町奉行(西)因幡守
嘉永7年5月20日1854年6月15日普請奉行因幡守
安政2年8月9日1855年9月19日勘定奉行(公)因幡守
安政5年5月24日1858年7月4日江戸町奉行(北)因幡守
安政5年12月12日1859年1月15日江戸町奉行因幡守飯泉喜内等吟味掛
安政6年12月28日1860年1月20日留守居格江戸町奉行因幡守
万延元年4月28日1860年6月17日留守居格江戸町奉行因幡守国益主法掛
文久2年6月5日1862年7月1日一橋家老因幡守席次是迄通
文久2年8月24日1862年9月17日留守居次席講武所奉行因幡守高2500石
文久2年閏8月25日1862年10月8日西丸留守居因幡守
文久2年11月23日1863年1月12日寄合長門守隠居、差控え
元治2年1月20日1865年2月15日講武所奉行長門守隠居
慶応2年11月18日1866年12月24日寄合大和守御役御免、金2枚時服2

屋敷地推定

別地屋敷地

『江戸切絵図』大名小路/安政7年より抜粋、「北町御奉行御役屋敷 石谷因幡守」表記区画を穆清の屋敷地(北町奉行役屋舗)と推定。同区画は嘉永2年の『江戸切絵図』では「北町奉行御役屋敷 井戸對馬守」(井戸覚弘)表記、文久3年の『江戸切絵図』では「北町御奉行 阿部越前守」(阿部正外)表記、慶応元年の『江戸切絵図』では「北町御奉行所 池田播磨守」(池田頼方)となっている

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/嘉永6年)大坂町奉行より抜粋

家紋は石持地抜き九曜

花押

[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[1],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552686 (参照 2024-08-04)