浅野氏祐

『江戸切絵図』小川町/文久3年より抜粋、「浅野一学」表記区画を氏祐の屋敷地と推定。家禄は2000石

親仏幕政の推進者の一人

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
安政6年1月11日1859年2月13日使番次郎八高2000石
万延元年閏3月1日1860年4月21日目付一学外国掛
文久元年11月13日1861年12月14日目付伊賀守諸大夫
文久2年7月26日1862年8月21日大目付伊賀守
文久2年8月2日1862年8月26日大目付伊賀守鉄砲改
文久2年10月17日1862年12月8日神奈川奉行伊賀守高2000石
文久3年5月11日1863年6月26日勘定奉行格神奈川奉行伊賀守
文久3年5月15日1863年6月30日外国奉行/神奈川奉行伊賀守高2000石
文久3年7月5日1863年8月18日大目付/神奈川奉行伊賀守
文久3年7月14日1863年8月27日大目付/神奈川奉行伊賀守分限帳改
文久3年7月28日1863年9月10日寄合伊賀守御役御免
文久3年8月9日1863年9月21日寄合伊賀守隠居蟄居
慶応元年5月23日1865年6月16日陸軍奉行並同様伊賀守
慶応元年8月10日1865年9月29日陸軍奉行並切米1000俵
慶応2年9月27日1866年11月4日外国奉行美作守
慶応2年10月15日1866年11月21日勘定奉行(勝)美作守
慶応3年3月22日1867年4月26日陸軍奉行並/勘定奉行美作守
慶応3年4月7日1867年5月10日若年寄並/陸軍奉行美作守高2000石、勤候内足高5000俵
慶応4年1月23日1868年2月16日若年寄美作守

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『慶応武鑑』(須原屋/慶応3年)陸軍奉行より抜粋

家紋は丸に違い鷹の羽

肖像

出典:『舊幕府』4(7),旧幕府雜誌社,1900-07. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1559429 (参照 2024-06-05)