岡部長常

『江戸切絵図』番町/嘉永3年より抜粋、「岡部駿河守」表記区画を長常の屋敷地と推定。家禄は1300石

対蘭交渉担当として長崎表御用で活躍

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
天保10年1月13日1839年2月26日小納戸彦十郎
天保10年12月22日1840年1月26日小姓彦十郎
嘉永6年9月22日1853年10月24日小姓(家定公)兵衛尉
嘉永6年10月3日1853年11月3日使番右兵衛尉高1300石
嘉永7年5月26日1854年6月21日西丸目付駿河守
嘉永7年11月11日1854年12月30日目付介駿河守
安政2年9月14日1855年10月24日目付駿河守海防掛
安政3年1月24日1856年2月29日目付駿河守長崎派遣
安政4年12月28日1858年2月11日長崎奉行駿河守
文久元年11月16日1861年12月17日外国奉行駿河守長崎表御用引受取扱
文久2年1月13日1862年2月11日外国奉行駿河守長崎御用御免
文久2年6月30日1862年7月26日大目付駿河守
文久2年7月1日1862年7月27日大目付/外国奉行駿河守
文久3年7月12日1863年8月25日寄合駿河守
文久3年12月15日1864年1月23日作事奉行駿河守
文久3年12月20日1864年1月28日作事奉行駿河守西丸普請掛
元治元年11月1日1864年11月29日神奈川奉行駿河守席次是迄通
元治元年12月8日1865年1月15日槍奉行駿河守
慶応元年閏5月1日1865年6月23日軍艦奉行駿河守
慶応元年7月8日1865年8月28日清水小普請組支配駿河守高1300石
慶応元年8月10日1865年9月29日寄合駿河守

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/安政6年)長崎奉行より抜粋

家紋は右三つ巴

花押

[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[1],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552686 (参照 2024-08-04)

史跡

境妙寺にある墓碑

命日は慶応2年12月1日(1867年1月6日)