小栗忠順(小栗上野介)

『江戸切絵図』小川町/慶応元年より抜粋、「小栗豊後守」表記区画を忠順の屋敷地と推定。家禄は2500石→2700石。小栗忠高は実父

親仏路線で近代化を強力に推進

和暦西暦役職通称備考
安政4年1月11日1857年2月5日使番又一家禄2500石
安政6年9月12日1859年10月7日目付又一外国掛
安政6年9月13日1859年10月8日目付又一遣米使節拝命
安政6年11月21日1859年12月14日目付豊後守諸大夫
万延元年11月8日1860年12月19日外国奉行豊後守
万延元年12月1日1861年1月11日外国奉行豊後守渡米褒賞、200石加増
文久元年4月6日1861年5月15日外国奉行豊後守対馬派遣
文久元年7月26日1861年8月31日寄合豊後守辞任
文久2年3月9日1862年4月7日小姓組番頭(二番組)豊後守
文久2年6 月5日1862年7月1日勘定奉行(勝)豊後守
文久2年閏8月4日1862年9月27日勘定奉行豊後守朝鮮信使来聘用掛
文久2年閏8月25日1862年10月18日江戸町奉行(南)豊後守
文久2年閏8月27日1862年10月20日江戸町奉行/勘定奉行(勝)豊後守
文久2年12月1日1863年1月20日歩兵奉行/勘定奉行豊後守
文久2年12月10日1863年1月29日歩兵奉行/勘定奉行豊後守講武所御用
文久3年4月23日1863年6月9日寄合豊後守辞任
文久3年7月10日1863年8月23日陸軍奉行並豊後守
文久3年7月29日1863年9月11日寄合豊後守御役御免
元治元年6月24日1864年7月27日寄合上野介阿部豊後守が老中
元治元年8月13日1864年9月13日勘定奉行(勝)上野介
元治元年12月18日1865年1月15日軍艦奉行上野介
元治2年2月21日寄合上野介御役御免
慶応元年5月4日1865年5月28日勘定奉行(勝)上野介
慶応2年8月11日1866年9月19日勘定奉行/海軍奉行並上野介
慶応3年12月28日1868年1月22日勘定奉行/陸軍奉行並上野介
慶応4年1月15日1868年2月8日寄合上野介
慶応4年閏4月6日1868年5月27日上野介被害

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/慶応3年)勘定奉行より抜粋

家紋は丸に立浪

史跡

東善寺にある墓碑

命日は慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)

東善寺に建つ小栗上野介像

雑司ヶ谷霊園にある墓碑

命日は慶応4年閏4月6日(1868年5月27日)

ヴェルニー公園に建つ小栗上野介忠順像

横須賀自然人文博物館前に建つ小栗忠順像

屋敷地跡に建つ「小栗上野介ここに生まれる」碑

肖像

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

出典:『幕末名家寫眞集』第2集,[書写者不明],[19–]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2575329 (参照 2024-05-31)