大久保忠良

『江戸切絵図』小日向/嘉永5年より抜粋、「大久保彦左衛門」表記区画を忠良の屋敷地と推定。家禄は2000石

使番から普請奉行まで昇進

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
文政12年1月11日1829年2月14日使番彦左衛門高2000石
弘化4年11月11日1847年12月18日使番彦左衛門鹿狩御用取扱
嘉永元年6月24日1848年7月24日西丸目付彦左衛門
嘉永3年12月15日1851年1月16日目付彦左衛門
嘉永7年1月22日1854年2月19日禁裏附彦左衛門
文久元年9月14日1861年10月17日普請奉行大隅守
文久2年6月15日1862年7月11日寄合大隅守

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/嘉永7年)禁裏附より抜粋

家紋は大久保藤

花押

[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[1],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552686 (参照 2024-10-20)

幕府名士小伝(著:木村芥舟)

大隅守大久保忠良、始め彦左衛門と称す。嘉永七年、禁裏附に任ず。この人はじめ目付たりしとき、荷車挽きて門前を過るものあり。ここにて肩を休め一人の男、表門を指し、これが昔の強い大久保彦左衛門殿の屋敷よといえば、一人の男、今の彦左衞門殿も強いかのうという。この時、前の男、否とよ、今のは大の弱虫よといいしを、忠良、折節長屋の物見に居てこれを聞き、翌日登城の上、笑て同僚に語りたりという。嘉永六年、米艦近海に来り和戦の議論殊に盛んなりしとき、目付の人々皆攘夷を主張し建白する所ありしが、忠良一人、異存ありとて連署を拒みたり。その趣旨は建議の文を見ざれば、計り難しといえども、この人衆議に雷同せずして別に己れが意見を主張したるは、中流砥柱の乃祖の遺風を失はざるものといえり。