井戸覚弘

『江戸切絵図』番町/嘉永3年より抜粋、「井戸對馬守」表記区画を覚弘の屋敷地と推定。家禄は2548石。滝川具挙は娘婿

異国船対応に手腕を振るう

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
天保8年1月11日1837年2月15日使番大内蔵高2548石
天保13年7月10日1842年8月15日使番/見廻大内蔵
天保13年11月8日1842年12月9日目付大内蔵勝手掛
天保14年8月9日1843年9月2日目付大内蔵大坂城修復御用
天保15年5月13日1844年6月28日目付大内蔵世良田宮遷宮御用
天保15年9月7日1844年10月18日目付大内蔵本丸炎上付道具新規出来御用
弘化2年4月7日1845年5月12日目付大内蔵長崎派遣
弘化2年12月3日1845年12月31日長崎奉行大内蔵
弘化3年6月7日1846年7月29日長崎奉行対馬守来航仏艦対応
嘉永2年8月4日1849年9月20日江戸町奉行対馬守
嘉永5年12月4日1853年1月13日江戸町奉行対馬守西丸炎上之節骨折褒賞
嘉永7年1月15日1854年2月12日江戸町奉行対馬守浦賀派遣(黒船対応)
嘉永7年3月3日1854年3月31日江戸町奉行対馬守日米和親条約調印(全権)
安政3年11月18日1856年12月15日留守居次席大目付対馬守宗門人別改
安政5年1月27日1858年3月12日留守居次席大目付対馬守琉球人参府御用掛
安政5年4月7日1858年5月19日対馬守

屋敷地推定

別地屋敷地

『江戸切絵図』大名小路/嘉永2年より抜粋、「北町御奉行御役屋舗 井戸對馬守」表記区画を覚弘の屋敷地(北町奉行役屋舗)と推定。同区画は安政7年の『江戸切絵図』では「北町奉行御役屋敷 石谷因幡守」(石谷穆清)表記、文久3年の『江戸切絵図』では「北町御奉行 阿部越前守」(阿部正外)表記、慶応元年の『江戸切絵図』では「北町御奉行所 池田播磨守」(池田頼方)となっている

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/嘉永3年)江戸町奉行より抜粋

家紋は星梅鉢

花押

[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[1],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552686 (参照 2024-08-04)

史跡

養源寺にある墓碑

命日は安政5年4月7日(1858年5月19日)