水野忠徳

『江戸切絵図』小川町/文久3年より抜粋、「水野筑後守」表記区画を忠徳の屋敷地と推定。昌平黌学問吟味乙科及第(天保9年)。家禄は400石→500石。同区画は嘉永3年の『江戸切絵図』において「岡田利嘉二郎」(岡田忠養)表記、安政7年の『江戸切絵図』においては「竹内下野守」(竹内保徳)表記となっている

少禄から立身を遂げた初代外国奉行

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
天保15年6月13日1844年7月27日西丸目付甲子二郎
弘化3年8月8日1846年9月28日使番甲子二郎家禄400石
嘉永2年7月28日1849年9月14日先手弓組甲子二郎
嘉永2年10月9日1849年11月23日先手弓組甲子二郎火付盗賊改加役
嘉永5年4月15日1852年6月2日浦賀奉行甲子二郎
嘉永5年5月15日1852年7月2日浦賀奉行筑後守諸大夫
嘉永6年4月28日1853年6月4日長崎奉行筑後守
嘉永7年8月23日1854年10月14日長崎奉行筑後守日英和親条約調印(全権)
安政元年12月24日1855年2月10日勘定奉行(勝)筑後守家禄500石に加増
安政3年10月20日1856年11月17日勘定奉行筑後守外国貿易取調掛
安政4年4月15日1857年5月8日勘定奉行/長崎奉行筑後守
安政4年12月3日1858年1月17日田安家老筑後守
安政5年7月8日1858年8月16日外国奉行筑後守足高是迄通
安政5年7月18日1858年8月26日外国奉行筑後守日英修好通商条約調印(全権)
安政5年9月3日1858年10月9日外国奉行筑後守日仏修好通商条約調印(全権)
安政6年4月8日1859年5月10日外国奉行/勘定奉行筑後守
安政6年6月4日1859年7月3日外国奉行/勘定奉行/神奈川奉行筑後守
安政6年8月28日1859年9月24日軍艦奉行/勘定奉行筑後守外国御用取扱
安政6年10月28日1859年11月22日西丸留守居筑後守外国御用取扱
文久元年5月12日1861年6月19日外国奉行筑後守
文久2年7月13日1862年8月8日箱館奉行下総守糟屋筑後守が同役
文久2年9月3日1862年10月25日寄合痴雲隠居

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑(出雲寺/安政6年)』外国奉行より抜粋

家紋は丸に立ち沢潟

史跡

宗清寺にある墓碑

命日は慶応4年7月9日(1868年8月26日)

肖像

出典:『幕末名家寫眞集』第2集,[書写者不明],[19–]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2575329 (参照 2024-05-31)