嘉永から慶応にかけて幕府によって公式に欧米に派遣された使節団は全部で7回を数えます。このうち最初の3回(万延遣米使節団、文久遣欧使節団、横浜鎖港談判使節団)と慶応期にロシアに派遣された樺太国境画定交渉使節団は、交渉や批准書の交換手続きのために派遣された外交使節団となります。一方、慶応遣欧使節団や、慶応遣米使節団など、慶応年間になると調達を目的にした使節団も派遣されるようになります。また、慶応期にはパリ万博使節団のように、それまでの使節団とは違った特徴が見られる使節団も派遣されました。以下で各使節団を個別に見てみましょう。
◆万延遣米使節団(安政7年1月22日~万延元年9月28日)
江戸幕府が最初に欧米に派遣した使節団です。正使に新見正興、副使に村垣範正、目付に小栗忠順(小栗上野介)が任じられ、この3人が「三使」として代表を務めています。他には勘定組頭の森田清行(森田岡太郎)などが使節団に選任されています。主な目的は安政5年6月19日(1858年7月29日)に締結した日米修好通商条約の批准書の交換です。それ以外に海軍工廠などの様々な最新鋭施設の視察や、貨幣交換比率の改訂交渉なども目的としていました。よく知られている木村喜毅(木村芥舟)、勝義邦(勝海舟)、小野広胖(小野友五郎)、中浜(ジョン)万次郎、福沢諭吉などが乗船して渡米した咸臨丸は、アメリカ軍艦ポーハタン号で渡米した正使一行の随行鑑という位置づけになります。サンフランシスコで正使一行が無事、太平洋横断したのを見届けると、以後は正使には随行せず、再度太平洋を横断して日本へ帰国しました。正使一行はさらにパナマまでアメリカ軍艦で行き、パナマ地峡を蒸気機関車で横断し、大西洋岸に出ると別のアメリカ軍艦でワシントンまで行き、大統領に謁見して、目的である批准書の交換をします。さらにニューヨークなどを経て、帰路は大西洋を横断し、喜望峰の南を通過して、バタヴィア(ジャカルタ)、香港などを経由し、地球を1周して帰国します。

田中一貞 編『万延元年遣米使節図録』,田中一貞,1920. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1920856 (参照 2026-10-28) 海軍工廠前で撮影された使節団の写真。前列一番右が森田清行(森田岡太郎)、その左が目付の小栗忠順(小栗上野介)、その左が正使の新見正興、その左が副使の村垣範正
◆文久遣欧使節団(文久元年12月22日~文久2年12月11日)
2度目の欧米へ派遣されたのは文久元年12月22日に品川を出港し、ヨーロッパ各国を訪れた文久遣欧使節団です。正使に竹内保徳、副使に松平康直、目付に京極高朗が任じられ、柴田剛中なども使節団に選任されていました。主な目的は、攘夷の嵐が吹き荒れる中で、兵庫と新潟の開港及び江戸と大坂の開市の期限延期の交渉です。駐日イギリス公使のオールコックも同時期に休暇で帰国し、交渉を後押ししてもらったことが功を奏して、目的の開港開市を約した「ロンドン覚書」の締結に成功し、それに倣う形でフランスとも「パリ覚書」を締結します。また、フランス皇帝ナポレオン3世、オランダ国王ウィレム3世、プロイセン国王ウィルヘルム1世、ロシア皇帝アレクサンドル2世、ポルトガル国王ルイ1世と謁見を果たすなどの成果を得て帰国します。

恒齋高嶋久也 著『歐西紀行 20巻』[8],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2578058 (参照 2026-10-28) 使節団がロシア皇帝と謁見した様子を描いた絵画。中央の黄色の着物が正使の竹内保徳、その右の紫色の着物が副使の松平康直、その右の緑色の着物が監察(目付)の京極高朗などが記載文字から読み取れます
◆横浜鎖港談判使節団(文久3年12月29日~元治元年7月22日)
攘夷の実行を求める朝廷に対して、欧米と戦端を開くわけにはいかない幕府は、横浜を再度、鎖港するための交渉団を欧米に派遣することで、攘夷とすると回答しました。これを受けて派遣されたのが横浜鎖港談判使節団です。正使に池田長発、副使に河津佑邦、目付に河田煕が選任されました。ただし、先の文久遣欧使節団が交渉の結果、開港開市の延期という猶予を与えられていたにもかかわらず、既定路線の「開港」に逆行する「鎖港」が実現する可能性は幕府も低いと考えていたと思われ、時間稼ぎの意味合いが大きい派遣でした。最初の訪問国であるフランスとの交渉や技術力を目の当たりにした使節団は、独自の判断で幕命に反する内容の「パリ約定」を締結し、他の国との交渉は取りやめて帰国してしまいます。幕命に反した交渉の責任を取って、三使は蟄居や家禄召上げなどの処分を受けています。

『杉浦譲関係文書』(国立国会図書館蔵)所収「パリ約定」三使の署名(https://dl.ndl.go.jp/pid/13745534/1/23)横浜鎖港談判使節が締結した「パリ約定」は、幕府の意図する内容ではなかったため、後にその批准を拒否し、発効はしませんでした
◆慶応遣欧使節団(慶応元年閏5月5日~慶応2年1月26日)
4度目の使節団は、これまでとは一線を画し、外交交渉を目的とするのではなく、小栗忠順(小栗上野介)らが進めていた横須賀製鉄所(造船所)建設に必要な調達を主な目的として派遣されました。正使は文久遣欧使節団にも選定されていた柴田剛中です。幕府から横須賀製鉄所建設を委託されたフランス人技師のヴェルニーが、建設に必要とする技師や工作機械などをフランスやオランダから調達しました。また、駐日フランス公使のロッシュと急接近していた幕府は、フランス軍による洋式の軍事教練を渇望し、この使節団の交渉によってフランス本国からの協力を取り付けることに成功します。これを受けてフランスから実際にシャノワーヌやブリュネといった軍事顧問団が派遣され、伝習隊などの幕府陸軍に対する教練が実施されることになりました。

横須賀ヴェルニー公園の小栗広場に、小栗忠順の胸像と並んで建つヴェルニー胸像
◆樺太国境画定交渉使節団(慶応2年10月12日~慶応3年5月8日)
古くは文化年間のゴロヴニン事件(1811~1813年)から日露間に生じている国境問題は、嘉永~安政期のプチャーチンとの交渉でも議題として取り上げられ、竹内保徳らの文久遣欧使節団もロシアを訪れた際に交渉していますが、いずれも決着を見ないで先送りされていました。これを解決すべく慶応年間にロシアに派遣されたのが樺太国境画定交渉使節団となります。正使に小出秀実(小出実)、副使に石川利政が選任されました。8回に及ぶ交渉に臨みましたが、今回も国境の画定がなされない日露間樺太島仮規則を締結して帰国することになりました。

[簿冊]「小出大和守石川駿河守魯西亜国与談判之儀ニ付全権使節委任状」(多012754)、国立公文書館デジタルアーカイブ、https://www.digital.archives.go.jp/file/1198896 正使小出秀実(小出実)と副使石川利政に下された全権委任状
◆パリ万博使節団(慶応3年1月11日~明治元年11月3日)
パリ万博使節団には他の使節団とは違った特徴があります。将軍徳川慶喜の名代として、異母弟である清水徳川家の当主である徳川昭武が代表に選任されましたが、他の使節団の責任者がすべて旗本だったのに対して、大名格の御三卿の当主がはじめて派遣されました。ただし、徳川昭武はわずか満13歳(数えで14歳)という年齢でした。万博訪問後はヨーロッパの5か国(スイス、オランダ、ベルギー、イタリア、イギリス)を歴訪し、そのままフランスで長期留学をして見聞を広める予定でした。徳川昭武は使節団の代表ではありますが、若年であるため、使節団の動向などを主導していたのは、向山一履(向山黄村)、栗本鯤(栗本鋤雲)、山高信離たちでした。また、留学も江戸幕府の崩壊とともに予定より早く切り上げざるを得なくなり、戊辰戦争中に帰国することとなりました。

『舊幕府』5(2),旧幕府雜誌社,1901-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1559434 (参照 2026-10-29) 徳川民部大輔(昭武)殿以下佛国派遣の一行。中央の椅子に座っているのが徳川昭武
◆慶応遣米使節団(慶応3年1月23日~慶応3年6月27日)
幕長戦争の影響で、軍備の増強が急務との考えに至った幕府は、かつて駐日アメリカ公使プリューインを通じて発注した軍艦を中心に、陸海軍の武器調達を目的に派遣されたのが慶応遣米使節団です。正使にはかつて咸臨丸での渡米経験を有する小野広胖(小野友五郎)、副使に松本寿太夫が選任されました。この時、装甲で覆われた最新鋭鑑であるストーン・ウォール号(甲鉄)の購入契約を締結して帰国します。しかし、甲鉄が日本に回航されたのは戊辰戦争勃発後となり、最終的には新政府がこれを入手し、宮古湾海戦や箱館湾海戦に新政府鑑として参戦することとなりました。

保勲会 編『戊辰戦記絵巻物』[5],保勲会,1893-1899. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2590925 (参照 2026-10-30) 箱館湾海戦を描いた挿絵の中央遠方の「甲鐵」が慶応遣米使節が調達してきた装甲鑑「ストーン・ウォール」号
全7回の使節団の主要メンバー(正使、副使、目付)を見ると、徳川昭武以外は、すべて旗本から選任されています。万延遣米使節の新見正興や小栗忠順(上野介)など旗本の中でも家格が高い両番筋から選任される場合もありますが、森田清行(森田岡太郎)、竹内保徳、柴田剛中、河津祐邦など永々御目見以上の申渡しを受けて御家人から抜擢された、家格がそれほど高くない旗本の割合が大きいという特徴があります。また、昌平黌学問吟味の及第者も多く選任されています。森田清行(森田岡太郎)、栗本鯤(栗本鋤雲)、木村喜毅(木村芥舟)、向山一履(向山黄村)、池田長発、石川利政、小出秀実(小出実)などが学問吟味及第者となります。このように使節団の人選においては、実務能力を重視した幕府の方針が伺えます。

