江戸城西丸炎上(嘉永5年)について

『続徳川実起』には、嘉永5年5月22日(1852年7月9日)の寅刻を過ぎる頃(午前5時ごろ)から巳刻(午前9~11時)に至るまで江戸城西丸が炎上したという記載が確認できます。この火災に関する幕府の対応をいくつかの史料から読み解いていきましょう。

西丸炎上の消防にあづかる者

 まず火災から約半年後の嘉永5年11月29日(1853年1月8日)に、この火災の消防に尽力した旗本に対して褒賞が出されていますので、詳細を確認してみます。『続徳川実紀』には褒賞を受けたものとして、11名が記名で記載されています。内訳は南町奉行の池田頼方と火消役10人(小笠原長儀、小笠原政民、仙石久祇、渡辺恒、秋山正光、神保相徳、小出有義、内藤正當、松平忠愛、岡田善寶)になります。この11名以外は役職と人数のみの記載となります。内訳は目付10人、西丸目付6人、使番24人、火事場見廻7人、西丸切手番之頭1人、西丸納戸組頭1人、納戸方6人、賄頭兼御膳所臺所頭1人、腰物方2人、表右筆4人、御膳所臺所頭並1人が時服または黄金、白銀などを賜ったと記載されています。

 無記名の褒賞者について、もう少し他の史料を使って推定してみましょう。まず目付の10人について見てみます。そもそも目付は定員10名ですので、在任者全員褒賞されたようです。『柳営補任』の記載から、火災当日の5月22日及び褒賞を受けた11月29日いずれも目付に在任している旗本を列挙すると、戸川安鎮、井戸弘道、鵜殿長鋭、大久保信弘、松本穀実、貴志忠美、大久保忠良、青木義處、荒尾成允の9人になります。この9人は褒賞を受けたと推定してよいと思います。ではあと1人の目付は誰だったのでしょうか。火災当日は別の役職として消防に功があり、褒賞当日は目付に転じていた旗本の可能性が高いと思われます。該当者を探すと、火災当日は使番だった一色直温が5月26日に目付に転じています。断定はできませんがこの一色直温が残り1名の最有力候補ではないかと思われます。

 次に西丸目付の6人について見てみます。こちらも定員6名ですので、在任者全員が褒賞を受けているようです。やはり『柳営補任』から、火災当日及び褒賞日の在任者を見てみると松平乗利、松下登綱、浅野氏綏、鈴木直列、遠山景簒、山岡景恭の6名になりますので、褒賞を受けた西丸目付はこの6人に推定してよいと思われます。

 続いて使番の24人について見てみます。このうち次に列挙する23人は『柳営補任』において、当人の使番の記事の中で、具体的に褒賞の記載が確認できますので、使番の褒賞者として推定してよいと思われます。村上常要、斎藤利和、山岡景豊、阿部正徳、松浦啓、彦坂紹徳、本多繁元、揖斐政恒、滝川元以、松平康正、久留正好、戸田光新、松平清秀、安藤次誠、根岸衛奮、京極高景、藤堂良為、長山直候、城嘉茂、水野忠敬、本多忠正、松平正之、阿部正外。

 目付には確認できない具体的な記載が使番には確認できる理由として考えられるのは、『柳営補任』の編者である根岸衛奮が使番として、この褒賞を受けおり、詳細を知る立場にあったことが無関係ではないと思われます。ただ、なぜ1人記載が足りないかについては不明です。当時、使番はおよそ60人の在任者がいますので、その中から、誰が残りの1人なのかを特定するのは困難と言わざるを得ません。

 最後に火事場見廻の7人について見てみます。火災当日及び褒賞日の在任者は、使番との兼務者を除くと次の8人になります。勝田典経、浅野長和、中根正一、屋代忠規、長谷川勝固、戸田光烈、能勢頼富、藤堂良連。このうちいずれか1人を除く7名が褒賞を受けていると思われますが、誰が除外者なのかは不明です。火事場見廻への着任時期が嘉永5年4月10日(1852年5月28日)と8人のなかで一番遅く、火災の1か月強前に着任したばかりの藤堂良連が対象外である可能性が最も高いと思われますが、断定はできません。その他の褒賞者は当サイトでもあまり扱っていない席次の低い役職者になります。以上が主にこの火災の消防で活躍した旗本になります。

西丸御殿普請にあづかる者

 ここからは焼失した西丸御殿の復旧について見てみます。火災から5日後の嘉永5年5月27日(1852年7月14日)には留守居の駒木根政暁、勘定奉行の石河政平と松平近直、作事奉行の篠山景徳、小普請奉行の遠山則訓、目付の戸川安鎮、西丸目付の松平乗利、勘定吟味役の立田正明が西丸普請掛に任じられ、西丸御殿の再建が開始されます。また、嘉永5年6月17日(1852年8月2日)には作事奉行の田村顕彰、小普請奉行の三宅康済、勘定吟味役の竹内保徳も西丸普請掛に任じられます。さらに嘉永5年7月10日(1852年8月24日)には側衆に転じた駒木根政暁に代わり、留守居の佐野政行が新たに西丸普請掛に任じられます。

 このうち、石河政平、松平近直、戸川安鎮、松平乗利、立田正明の5人は嘉永5年10月29日(1852年12月10日)に「炎上後彼是骨折りつとめた」ことに対して時服を賜ったことが『続徳川実紀』の記載で確認できます。また、西丸御殿は嘉永5年11月21日(1852年12月31日)に、着工から約5か月半という短期間で完成します。これに対して、西丸普請掛11名全員が嘉永5年12月24日(1853年2月2日)に褒賞がありました。さらに2日後の嘉永5年12月26日(1853年2月4日)には、西丸御殿が速やかに完成したことに対して、西丸普請掛のなかから、特に石河政平、松平近直、篠山景徳、田村顕彰、戸川安鎮、松平乗利、立田正明、竹内保徳の8名が重ねて褒賞を賜っていることが、『続徳川実紀』に記載されています。

 これらの記事から、火事に対する消防には町奉行、火消役、使番、火事場見廻などが活躍し、焼失した御殿の復旧には勘定奉行、作事奉行、小普請奉行、勘定吟味役などが活躍し、目付と西丸目付はいずれにも関与し、活躍していることが見て取れます。