武鑑で読み解く「五番方」 ~大番、書院番、小姓組、新番、小十人組について~

「番方」は戦時の戦闘員の役務を果たす幕職の総称で、主に平時の行政の役務を担う「役方」と対をなします。代表的な「番方」が「大番」「書院番」「小姓組」「新番」「小十人組」の「五番方」となります。その他の「番方」としては「小普請組」「百人組」「持弓組/持筒組」「先手弓組/先手鉄砲組」「留守居番」「徒組」などがあります。本コラムでは『武鑑』の記載を紹介しながら、「番方」のなかから「五番方」について解説していきます。引用図版いずれも嘉永6年の『大成武鑑』(出雲寺)からの抜粋です。

◆武鑑で読み解く「大番」「大番頭」

「大番」を率いる「大番頭」について『武鑑』における解説を見てみましょう。「大番頭」は老中支配で伺候席は菊之間、役高が5000石であることが分かります。さらに配下として役高600石で伺候席が躑躅間東襖際の「大番組頭」が配属されます。この後に掲載される実際の各組の編成から「大番組頭」は各組に4人配属されることがわかります。さらに役高200俵の「大番衆」が50人宛がわれます。ここまでが旗本の配下です。さらに「与力」が10騎、「同心」が20人宛がわれます。「与力」「同心」は御家人の配下です。「大番」は「五番方」の中でもっとも長い歴史を持ち、戦場において将軍が在陣する本陣から独立して行動する部隊としての役割が課せられています。そのため、「大番」を率いる「大番頭」は「番方」の中で最も席次が高く、役高も最高の5000石とされていました。一方、「大番」の小隊長的な役割である「大番組頭」は「書院番組頭」や「小姓組組頭」よりも席次や役高は低くなっています。これは本陣の親衛隊的な役割の「書院番」や「小姓組」は将軍の身辺を警護する可能性があることから、その可能性が低い「大番組頭」より各上とされているためで、これは各「番衆」についても同様となります。

図は一番組~四番組の実際の「大番頭」の記載部分の抜粋です。嘉永6年時点では同様の表記で十二組まで確認できます。この後、軍制改革の経過のなかで、大番の組数は徐々に減ぜられ、慶応3年5月25日に「大番」は全廃されます。一番組の「大番頭」である九鬼隆都は人名の右下に記載されている「家禄」が1万9500石とあるように、「大名」であることがわかります。このように「大番頭」には大身旗本だけでなく大名も就任しました。一番組の左上に「寅申二條」「巳亥大坂」という記載がありますが、これは一番組は寅年と申年が二條在番、巳年と亥年が大坂在番であることを表しています。このように「大番」には独立部隊としての役割から、交代で二條(京都)や大坂に派遣され、それぞれの防備を担当しました。最下段の三段には先に説明しました「大番組頭」の屋敷地、家禄、名前が記載されており、各組4名配属されていることがわかります。

◆武鑑で読み解く「書院番」「書院番頭」

次に「書院番頭」について『武鑑』の記載を見てみましょう。「書院番頭」は若年寄支配で伺候席が菊之間、役高は4000石です。「書院番組頭」は各組1名ですが、布衣の格式で役高1000石で伺候席は菊之間南襖際であり、いずれも「大番組頭」より格上であることがわかります。「書院番衆」は各組50人宛は「大番衆」と変わりませんが、役高は300俵と「大番衆」の200俵より格上です。伺候席は虎之間です。さらに与力10騎、同心20人が配属されるのは「大番」と同様です。組数は嘉永6年時点で本丸6組、西丸4組の合計10組ですが、大番と同様に軍制改革で徐々に組数を減じていき、慶応2年12月21日に全廃されます。書院番は小姓組と合わせて「両番」と呼ばれ、いずれも本陣の親衛隊の役割を果たす騎馬隊ですが、「小姓組」が本陣の護衛に特化した役割であるのに対して、「書院番」は苦戦している戦場への投入部隊の役割があり、独立部隊としての役割も有しています。そのため、かつては「大番」同様交代で「駿府在番」がありましたが、幕末期にはこの役割は廃止されています。『武鑑』には「御番日支干」として「壹番組」は「子午日」という記載が確認できますが、これは一番組が「子」「午」日に本丸の警護を担当したという意味です。本丸は6組が交代で、西丸は4組が交代で警護していました。

◆武鑑で読み解く「小姓組」「小姓組番頭」

続いて「小姓組」を見てみましょう。「小姓組番頭」は若年寄支配、伺候席は菊之間、役高は4000石であり、いずれも「書院番頭」と同様です。「小姓組組頭」も各組1名で布衣格式、役高1000石、伺候席が菊之間南襖際は「書院番組頭」と同様です。「小姓組番衆」は一組50人宛で役高300俵は「書院番衆」と同様ですが、伺候席が紅葉之間である点は違います。また「小姓組」には与力や同心が配属されていない点が「書院番」との大きな違いです。組数は嘉永6年時点では本丸6組、西丸4組で、書院番と同様にその後、徐々に組数を減じていき慶応2年12月21日に全廃されます。地方在番は当初からなく、「御番日之支干」の記載から、本丸は6組交代で西丸は4組交代で警護していたことがわかります。「書院番頭」「小姓組番頭」には「大番頭」と違って大名が就任することはありません。

◆武鑑で読み解く「新番」「新番頭」

次に「新番」を見てみましょう。「書院番」「小姓組」が騎兵の親衛隊であるのに対して「新番」と次に紹介する「小十人組」は歩兵の親衛隊となります。「新番頭」は六位相当の布衣格式で伺候席は中之間、役高は2000石となり、「書院番頭」や「小姓組番頭」に比してだいぶ格下となります。これまで見てきた「大番頭」「書院番頭」「小姓組番頭」は従五位下相当の諸大夫役で、就任時に叙任されていなかった場合、原則、就任後に叙任されますので、上記の図版で確認できる人名は全員「●●守」などの「官職名」が通称となっていますが、「新番頭」は叙任されない布衣役ですので、通称表記が「官職名」ではなく「右近」「勘兵衛」といった「仮名」である「新番頭」が存在することがわかります。「新番組頭」は伺候席が桔梗之間で役高600石で各組1人配属されます。「新番衆」は伺候席が土圭之間で役高150俵で20人宛となります。新番には与力、同心の配属はありません。組数は嘉永6年時点では本丸6組、西丸2組で、その後徐々に組数を減じていき、慶応2年12月21日に全廃されます。「御番割之日」の記載から本丸は6組交代で、西丸2組交代で警護に当たっていたことがわかります。

◆武鑑で読み解く「小十人組」「小十人頭」

最後に「小十人組」を見てみます。「小十人頭」は若年寄支配で布衣格式で、伺候席は躑躅之間、役高は1000石となり「新番頭」よりさらに格が下がります。人名表記がこれまでの四番方の頭が楷書であったのに対して、「小十人頭」は行書で記載されており、さらに「諱」の記載がありません。これらの表記法の違いも「新番頭」より「小十人頭」が格下であることを体現しています。「大番」「書院番」「小姓組」でも「番頭」は楷書で諱まで表記されていますが、「組頭」は行書で諱の表記がないなども同様の意味合いがあります。「小十人組頭」は各組2人配属され、伺候席は檜之間、役高は300石となります。「小十人衆」も伺候席は檜之間で役高は100俵10人扶持で20人宛がわれ、与力、同心の配属はありません。「小十人組」には割番日の記載は確認できません。組数は嘉永6年時点で本丸7組、西丸4組でその後徐々に組数を減じていき、慶応2年12月16日に全廃されます。