目付の職務は大きく言うと直参(旗本・御家人)の統制を目的とした監視任務となります。この目的を達するために、席次のわりに強い権限を有していたため、要職を目指す旗本にとって登竜門的な役職となっていました。開国前の嘉永期までは本丸に10人配属されていたため、俗に「十人目付」と呼ばれていました。西丸にも6人の西丸目付が配属されていましたが、本丸目付の見習的な意味合いがある役職で多くの場合、本丸目付に転じています。『大成武鑑』には嘉永期ごろまでは、担当の役割の記載が確認できます。目付がいかに幅広い実務を担っていたかを武鑑の記載から紐解いてみます。このコラムでは特に多くの役割の記載が確認できる嘉永5年の『大成武鑑』を見ていくことにします。
◆武鑑で読み解く目付の役割

まず、タイトル周りを見てみます。目付は若年寄支配、布衣役で役高は1000石であることがわかります。次に人名表記を見ると、行書で諱の記載がないので、そこまで格式が高くない表記になっています。人名の右側には父の通称と家禄の記載があり、その間に四角形や六角形に「付」や「戸」の表記の合印が確認できます。これは、前職を表す記号で、四角形は本丸、六角形は西丸、「付」は「目付」、「戸」は「小納戸」を表します。六角形に「付」の字は「西丸目付」、四角形に「戸」の字は「本丸小納戸」を意味します。この時点の目付は10人のうち8人が「西丸目付」から、2人が「本丸小納戸」から転じてきていることがわかります。人名の左横には着任した年月、さらにその左横の枠に細かく記載されているのが、担当した役割になります。10人のうち5人には役割の記載があり、残りの5人には記載がありません。以下では記載のある目付を取り上げて、各役割について具体的に確認してみましょう。
1人目は上段右から1番目の井戸鉄太郎(井戸弘道)を見てみましょう。役割として「大筒稽古場御府内御鉄炮調布衣以下親類書調」と記載されています。これは3つの役割が切れ目なく列挙されおり、一見、何を意味するのか分かりづらくなっていますので、分解して1つずつ確認してみます。まず「大筒稽古場」までが1つ目の役割を表しています。これは品川の御殿山下にあった代々鉄砲方を務める井上左太夫家が管轄する大筒稽古場などの監視の役割です。当サイトでも井上正路のページで大筒稽古場について紹介しています。続いて「御府内鉄炮調」までが2つ目の役割を表しています。これは大目付が管轄する「鉄砲改」の役割を目付も連携して行っていた役割となります。詳細は「鉄砲改めについて」のコラムをご覧ください。最後に「布衣以下親類書調」が3つ目の役割です。これは比較的下級の旗本の親族調査の役割です。目付の行っていた直参監視には人事考課の意味合いもありました。特に昇格審査などでは本人の能力、素行に加えて親族に問題が生じていないかなども考課の対象となりましたので、そのための役割になります。
2人目は上段右から2番目の長谷川甚兵衛(長谷川清福)を見てみましょう。「部屋住御番入由緒調人足改」と記載されています。これも2つの役割が列挙されていますので分解して確認します。まず「部屋住御番入由緒調」が1つ目の役割です。部屋住番入とは家督を継ぐ前の惣領を早期に抜擢して役職に就ける抜擢人事のことです。その際に提出される履歴書にあたる「由緒書」の内容に虚偽がないかを調べる役割となります。次に「人足改」が2つ目の役割です。「人足改」と言えば、町火消の下で消火活動を行った火消人足の統制などを担った江戸町奉行配下の与力を指すのが一般的です。ただし、直参幕臣の監視を主務とする目付が、町方である町火消統制の役割を課されたとは考えにくいです。一方で、旗本が任命された定火消などが火事場で決められた職務を果たしているかを監視し、大名火消や町火消との持ち場争いなどが生じないように、火事場での調整役も果たした「火事場目付」の役割は、目付の重要な任務であり、『旧事諮問録』のなかで、山口直毅が詳細に語っています。「人足改」が「火事場目付」の役割を指しているのかは判然としませんが、調査を継続し、判明したら、本コラムを更新しようと思います。
3人目は上段左から2番目の三宅市右衛門(三宅康済)を見てみます。「御勝手御日記医学館御濱見廻聖堂学問所吟味」と記載されおり、5つもの役割が列挙されています。分解すると「御勝手」が1つ目の役割です。これは幕府の財政政策を管轄した勝手方勘定所を監視する役割です。勘定所には内部に勘定吟味役という監視役が存在しますが、勘定所の外からも目付が目を光らせていました。次に「御日記」が2つ目の役割です。これは大目付が担った「日記改」の役目を目付も連携して担った役割です。詳細はコラム「日記改について」をご覧ください。続いて「医学館」が3つ目の役割です。これは幕府管轄の官営漢方医学校である医学館や幕医の監視の役割となります。続いて「御濱見廻」が4つ目の役割です。こちらは将軍の別荘である濱御殿の見廻や濱御殿奉行などを監視する役割です。「聖堂学問所吟味」が5つ目の役割です。聖堂(昌平黌)で実施された学問吟味という学力試験と儒役や儒者を監視する役割です。学問吟味も人事考課と関係があるため目付が立ち会いました。
4人目は下段の左から1番目の大沢仁十郎(大沢乗哲)を見てみます。「服忌武術上覧部屋住御番入由緒調」と記載され、3つの役割を担当しています。1つ目の「服忌」は大目付の役割である「服忌令改」を連携して担当した役割です。詳細はコラム「服忌令分限帳改について」をご確認ください。2つ目の「武術上覧」は将軍の御前で披露される武芸の実力試験であり、こちらも人事考課に関係するため目付が立ち会いました。本コラムのタイトルバックの錦絵は『千代田之御表 武術上覧』と題されており、右上に座って見ている2人の武士がおそらく目付だと思われます。3つ目の「部屋住御番入由緒調」は長谷川清福と同じ役割となります。下段右から2番目の戸川中務少輔(戸川安鎮)にも役割の記載がありますが、すべて他の目付と同様の役割なので、解説は割愛します。
これまで見たように10人の目付のうち、半数の5人には役割の記載があり、それぞれ複数の役割が振られている一方で、何の記載もない目付が5人いて、アンバランスな印象があります。実は他の年次の『大成武鑑』では役割の記載がない目付の方が多いのが一般的です。弘化5年の『大成武鑑』では、上記の役割以外に松平式部少輔(松平近韶)の役割として「辻番」という記載が確認できます。江戸市中の約900か所に設置された辻番所を管轄する役割です。この役割が嘉永5年でなくなっているとは考えられませんので、版元が嘉永5年の時点でこの役割をどの目付が担当なのかが把握できずに記載がないのではと思われます。このような理由で記載がある役割とない役割が混在しているのだと思われます。
◆『旧事諮問禄』から読み解く目付の役割
ここからは『大成武鑑』には記載が確認できないものの、『旧事諮問録』などから確認できる目付の役割のうち、重要なものを3つご紹介します。
1つ目の役割は「判元見届」です。これは武家において重要な家督相続における手続きに関する役割となります。跡取りである惣領が決まっていない武家において当主が急死すると、制度上は改易となります。本来、大名や旗本は将軍への謁見を済ませないと、正式に後継者とは認められません。将軍への謁見をしていない末期養子を迎える際に、将軍の耳目となって当主の存命を確かめる役割が「判元見届」となります。元来は御家乗っ取りなどを防ぐために始まった制度ですが、厳格に運用すると改易となる武家が後を絶たなくなるため、江戸後期には死亡した当主を存命と見立てた「判元見届」も多くは黙認されたようです。
2つ目の役割は「評定所の監視」です。評定所とは三奉行(寺社奉行、江戸町奉行、勘定奉行)が老中や若年寄の元で重大案件の審議や政策決定を行う機関になります。目付はこの審議などに不正がないかを監視する役割を担っていました。これに付随して評定所に設置された目安箱を、施錠されたまま将軍の元に運ぶ役割なども目付が担っていました。
3つ目の役割は「外交交渉の監視」です。欧米各国と締結した条約の交渉団には必ず目付が配属され、調印時には目付も署名をしています。また、欧米に派遣された外交使節団にも、外交交渉が目的の場合、必ず目付が使節団メンバーに選任されました。万延元年遣米使節において小栗忠順が目付に任じられたのも、この役割を担っていたことになります。開国後「外交交渉の監視」の役割が急増したため、従来10人だった目付の定員も急増し、それに伴って『大成武鑑』における目付の役割の記載も、安政期以降はほとんど見られなくなりました。
これまで見たように目付は幕臣が関与するありとあらゆる重要な局面を監視するために、多種多様の役割が課される激務だったと思われます。加えて同僚の不正を糾弾する立場であったため、身なりや行動を正す必要があり、気が抜けません。さらに同僚から嫌われる立場でしたが、その後は遠国奉行から勘定奉行などに昇進するケースが多く、それを励みに激務をこなしていたのではないかと思われます。

