◆講武所運営を担った「講武所奉行」と「講武所頭取」
「講武所」は黒船の来航を受けて、各種武芸の養成を急務と考えた幕府によって、安政の幕政改革の一環として開設されました。主な講武所関連役職について『柳営補任』で確認できる説明を順次紐解いてみます。まず「講武所奉行」から見てみましょう。安政2年2月5日(1855年3月22日)に留守居、大番頭、書院番頭、小姓組頭から9名が「講武所総裁」兼帯(兼務)を任じられますが、後に大番頭の久貝因幡守(久貝正典)と書院番頭の池田甲斐守(池田長休)の2名が総裁を務めることとなったとあります。この講武所総裁が安政7年1月15日(1860年2月6日)に講武所奉行と役職名が変更となり、席次も留守居次席に定まりました。

図は安政6年版の『大成武鑑』の抜粋です。右上に「講武所総裁」と記載されているのがわかります。これに対して、万延元年版では同じ箇所の記載が「講武所奉行」に変わります。さらに、万延元年6月12日(1860年7月29日)には役高が5000石となり、文久2年3月11日(1862年4月9日)に、従来「留守居」支配だった「鉄砲玉薬奉行」「弓矢鎗奉行」「鉄砲箪笥奉行」「具足奉行」「幕奉行」が「講武所奉行」の支配(配下)となります。ただし、文久3年版の『大成武鑑』では、「鉄砲玉薬奉行」と「鉄砲箪笥奉行」は陸軍奉行支配と記載されています。文久2年12月1日(1863年1月20日)には「講武所奉行並」が1名、任命されるようになったとあります。「講武所奉行並」は諸大夫役で役高2000石、席次は西丸留守居の上とされました。続いて講武所奉行を支えた「講武所頭取」を見てみます。『柳営補任』からは「講武所頭取」も「講武所総裁」と同様に安政2年2月5日(1855年3月22日)から任免が確認できますが、当初はすべて別の役職との兼務となっています。それが文久元年12月10日(1862年1月9日)には正式な役職となり、役高700石、席次は二丸留守居次席に定まりました。上図でも「講武所総裁」が楷書で表記されているのに対して「講武所頭取」は行書で書かれていて、格式が落ちることを表現しています。
◆5種の武術を教授した「講武所師範役」
ここからは、実際に各種武芸の教師陣である「講武所師範役」を見てみます。剣術、槍術、砲術、弓術、柔術の5種の師範役がいました。初期は剣術、槍術、弓術、柔術の師範役が各1名だったのに対して、砲術は5名もの師範役が任命されています。

図は安政6年版『大成武鑑』から砲術師範役の部分を抜粋したものです。実際のメンバーを見てみますと、上段右の下曽禰金三郎(下曽根信之)上段左の勝麟太郎(勝義邦)下段下の江川太郎左衛門(江川英敏)が西洋砲術家であるのに対して、下段右の外記流の井上左太夫、下段真ん中の田付流の田付四郎兵衛は代々鉄砲方を務める伝統的な砲術家という構成になっています。文久3年以後の『大成武鑑』には弓術、柔術の師範役については記載がなく、代わりに剣術師範役が3名に、槍術師範役が2名に増員され、砲術師範役は変わらず5名記載されています。これが慶応3年版の『大成武鑑』まで見てみると、剣術師範役は最大8名、槍術師範役は最大6名、砲術師範役は最大12名まで増員されます。
剣術師範役は、当初は直新影流の男谷精一郎(男谷信友)が務め、その後、男谷の弟子の榊原鍵吉(榊原友善)柳剛流の松平上総介(松平忠敏)鏡新明智流の桃井春蔵、心形刀流の伊庭軍兵衛など錚々たる剣術家が名を連ねます。槍術師範役には泥舟こと高橋伊勢守(高橋政晃)などの名前も確認できます。『柳営補任』では各種師範役も従来は他の役職と兼務だったのが、文久元年5月16日(1861年6月23日)に正式に役職名となったという説明が確認できます。ただし、正式役職名となって以後も席次は定めず、技量などに応じて「西丸留守居格」「両番格」のようにまちまちだったようです。
◆存在感を増す「講武所」
最後に『大成武鑑』における「講武所関係役職」の掲載位置や表記方法の変遷を確認してみます。上記で確認した安政6年版を含めて文久3年版までは「講武所」及び「軍艦操練所」関連の役職は「中川番」と「宗門改」の間という位置となります。これは『大成武鑑』第3巻「本丸御役人」のなかでも真ん中あたりになり、扱いとしてはそれほど重視されていない印象があります。

図は元治2年版『大成武鑑』における「講武所奉行」掲載部分の抜粋です。これ以降は「講武所」関連役職は「留守居」と「大番頭」の間に掲載されるようになり、全ページの中では前から1割程度の位置まで掲載順が繰り上げられました。加えて、従来「講武所奉行」就任者の表記は楷書であるものの、諱の記載はなく1行2段構成だったのが、1行1段構成となり諱が追記され、『大成武鑑』における各職就任者名表記としては最高の格式となったことで、かなり存在感が大きくなった印象を受けます。これまで見てきたように年々、規模・席次・役高・配下などを拡充してきた「講武所」の実際の存在感の拡張を反映して、版元の出雲寺が「講武所」の扱いに修正をかけてきたのではないかと考えられます。

