各旗本の役職通称遍歴・屋敷地推定・武鑑記載家紋・花押について、どのような点に注意して推定しているかについて説明します。
『江戸切絵図』を参照し「幕臣の屋敷地」を推定
管理人は、当初、幕末に活躍した主な幕臣(旗本)の屋敷地が何処にあったのかを国立国会図書館と都立図書館がデジタルデータを公開している尾張屋版の『江戸切絵図』群を用いて推定していこうとしました。ちなみに、大名の屋敷地については多くの史料や研究があり、容易に調べられますので、当サイトでは、ほとんど扱いません。リンク集でも紹介しています「人文学オープンデータ共同利用センター」が提供している「江戸マップβ版」などがよくまとめられていますので、そちらをご活用ください。
本名ではなく通称で表記されている
旗本の動向を調べる際は、当然ながら「人名」に着目して史料にあたります。ところが、人名表記法に今では考えれない慣習があったため、この作業が困難を極めます。それは「本名」である諱(いみな)ではなく、「通称表記」が一般的ということです。この「通称」を「小栗上野介忠順」を例に見てみると、「忠順」が諱で、「上野介」が通称になります。親や主君以外の者が本名である諱で人を呼ぶことが極めて失礼とされていたため、日常会話では本名とは別の通称が呼称として用いられたようです。これは『続徳川実紀』といった史書においても採用されており、諱の記載は原則としてありません。江戸切絵図においても通称表記のみとなります。ご存じ「遠山の金さん」も本名の「遠山景元」ではなく、通称の「遠山金四郎」や「遠山左衛門尉」などと記載されます。
旗本の通称はころころ変わる
「遠山の金さん」の通称をふたつ紹介しましたが、このように複数の通称が存在する人物が多く存在することが、実に厄介です。これは生涯で折に触れて通称が変更されるために生じる現象です。旗本は出世し「江戸町奉行」などの諸大夫役と呼ばれる上級「役職」に就任すると、「従五位下」などの「官位」が与えられ「左衛門尉」などの「官職」に任命されます。「役職」には実務が伴いますが、江戸時代に武家が任じられた「官職」は実務とは無関係で、権威付けとして任じられました。ただし、誇らしいことではありますので、官職に任じられると「官職名」が「通称」として用いられました。そのため「遠山の金さん」は官職に任じられると「遠山金四郎」から「遠山左衛門尉」に通称が変更さました。ちなみに、諱は一貫して「景元」です。諱も変更されることはありますが、幕末期の旗本を見ると、通称の変更に比べればその頻度は少ないです。
上司や同僚と被ると通称が変わる
「左衛門尉」や「越前守」といった「官職」には数に限りがあります。このため、同一の「官職」に任じられている大名や旗本が複数いることは一般的でした。それでも「官職」は実務とは無関係なので、ほとんど支障ありません。ただし、呼称として用いるため、頻繁に会話する上司や同僚と被ると支障がありました。このため、老中・若年寄など上役の新任時に「通称」が被った配下は、「官職」を遷任することで「通称」を変更しました。このため、大名より旗本の方が頻繁に通称が変更される傾向があります。また、旗本が異動した際、同役の旗本と通称が被った場合も同様に通称が変更されました。様々な要職を歴任する旗本は特に頻繁に通称が変わる傾向があり、注意を要します。
隠居すると号を称する
家督を譲って隠居すると出家し、号を称する(=通称とする)のが一般的です。「大久保一翁」の例を見てみましょう。諱は忠寛です。大久保忠寛は元治元年に御役御免になるまで長崎奉行、京都町奉行、外国奉行、大目付、勘定奉行などの要職を歴任し、「志摩守」「右近将監」「伊勢守」「越中守」などを通称としましたが、慶応元年に家督を譲り、隠居して「一翁」という号を称します。大久保はその後、再度、会計総裁や若年寄に任じられますが、その際も「一翁」と称していたことが『柳営補任』という江戸時代の役職任免記録の記載からわかります。
『柳営補任』を参照し「幕臣の役職通称遍歴」を整理
先に触れたように『江戸切絵図』も通称表記ですので、記載人物を特定するため、まず主な旗本の通称遍歴を整理する必要が生じました。そのために主に参照しているのが、先にも紹介した『柳営補任』です。編者は、勘定奉行や外国奉行を歴任した根岸衛奮という幕末期の旗本です。幕府の公式記録ではないため、一部誤認があるとされていますが、幕末まで主な役職の任免が記録されている貴重な史料です。ありがたいことに『柳営補任』では、「通称」に加えて、重要な役職の多くで諱が記載されています。また、前後の役職記載もあるため、経歴が辿りやすい編集になっています。補完的に国会図書館デジタルコレクションで公開されている『続徳川実紀』の記述と東京大学史料編纂所データベースの『維新史料綱要』などを用いて、各旗本の役職通称遍歴を推定・整理して掲載していきます。いずれもリンク集にリンク先を掲載しておきます。
「部屋住み」は記載されない
整理した通称遍歴を『江戸切絵図』の記載名と照合して、旗本の屋敷地を推定していきます。ところが、幕政で活躍しているにもかかわらず、切絵図に表記が確認できない旗本が何人か存在します。例えば、外国奉行に抜擢され、安政五ヶ国修好通商条約(米、蘭、露、英、仏)のすべてに、全権として署名している岩瀬忠震を見てみましょう。岩瀬忠震には「修理」「伊賀守」「肥後守」などの通称が用いられますが、切絵図のどこにも、いずれの表記も確認できません。一方、文久元年と記載がある鉄砲洲近辺の切絵図には忠震の養父である「岩瀬一兵衛」の表記が確認できます。また『柳営補任』を確認すると、安政5年の忠震の外国奉行就任時に「市兵衛倅」と記載があります。これは、この時点で忠震は岩瀬家の「家督」を継いでいないことを意味します。これらのことから、岩瀬忠震は養父の屋敷でいわゆる「部屋住み」していたと推定できます。多くの旗本の屋敷地を推定していく中で、どうも江戸切絵図には家督を相続している当主の通称しか記載されていないことがわかってきました。岩瀬忠震は家督を継ぐことなく死亡してしまったため、どの出版年のどの切絵図にも忠震の表記が確認できないのだと思われます。当サイトではこのような場合、家督者(岩瀬の場合は養父)表記の屋敷地を部屋住み屋敷地と推定しています。
親子で同一の通称を用いることも
親子で同一の通称を用いている場合が少なくない点も屋敷地推定に際して注意を要します。先に紹介した「遠山の金さん」の父親である遠山景晋も「左衛門尉」を通称に用いています。すると嘉永3年と記載のある愛宕下近辺の『江戸切絵図』で「遠山左衛門尉」と表記されている屋敷地が確認できますが、この表記が「景晋」を指すのか「景元」を指すのかが判然としません。先ほど見たように『江戸切絵図』では家督者の通称を記載するのが原則のようですので、文政12年に遠山家の家督が「景晋」から「景元」に譲られていることから、嘉永3年版の『江戸切絵図』で記載されている「遠山左衛門尉」とは「景元」のことを指している可能性が高いと推定できます。
情報更新が追い付かない
『江戸切絵図』は人気を博したため何度も改定増刷されています。同じ地域を描く切絵図の新旧版を比較すると様々な発見があり興味深いです。ただし、ここでも注意点があります。江戸全体を30を超える区画に区切って絵図としており、各切絵図に記載されている大名や旗本の人名は膨大な数になります。それが、これまで見てきたように家督相続や通称変更が頻繁になされるため、情報更新が間に合わず、古いまま掲載されていることがままあることがわかってきました。また、稀に紙面に記載の出版年では知りえないはずの「未来の情報」が記載されているという不思議な現象も確認できました。これは、出版年の記載は更新せず、ほかの情報を更新して出版したために生じているのではないかと推定しています。このように掲載情報が出版年の記載も含めて更新されていない可能性については、常に考慮する必要がありますが、それでも『江戸切絵図』は多くの示唆に富む興味深い史料であることに変わりないと思います。このような場合の補完的な資料として国会図書館でデジタルデータが公開されている『御府内沿革図書』を用いて、同地を確認するなどして推定の確度を上げるようにしています。『御府内沿革図書』は作事奉行によって整備されているので、情報の確度は高いのですが、天保年間までしか図版がない地域などがあるため、主にペリーが来航した嘉永年間以降を対象とする本サイトでは補完的な利用としています。
『武鑑』を参照し「幕臣の家紋」を掲載
『江戸切絵図』には大名の上屋敷の区画に、大名の家紋が記載されています。一方、残念ながら旗本の家紋については記載がありません。広大な領域の大名の上屋敷には家紋を記載するスペース確保が容易であるのに対して、旗本の屋敷地はそこまで広大ではありませんので、物理的に記載が難しかったのでしょう。そこで屋敷地を推定した旗本の家紋について『武鑑』を参照して紹介していきます。『武鑑』とは大名と幕府役職者(旗本含む)の年鑑紳士録です。こちらも旗本は原則通称表記ですが、要職の多くには諱が記載されています。また、屋敷地名の記載がある場合もあるので屋敷地推定にも、利用しています。人文学オープンデータ共同利用センターがデジタルデータを公開していますので、このデータを活用しています。ただし、公開データが刷りの状態、虫食い、塗りつぶし、ページの開きの関係で判読が難しい場合も散見されるため、出雲寺版と須原屋版の二版元の多年にわたる年次の『武鑑』から比較的状態の良い記載を選別して抜粋掲載して紹介します。
『花押似真』を参照し「幕臣の花押」を掲載
幕末期に留守居や大番頭などを歴任した土岐頼旨という幕臣が、作事奉行を務めていたころ(天保10年/1839年ごろ)に、当時の大名や主な役職に就任していた旗本の花押を印影とともに収集してまとめた『花押似真』という資料のデジタルデータが国会図書館で公開されています。土岐頼旨が何のためにこれを編集したのかは不明ですが、天保10年ころの役職をかなり網羅しているので、本サイトで紹介する幕臣の花押が『花押似真』で確認できた場合は、その幕臣の花押についても紹介していきます。本サイトで紹介する幕臣の半分くらいは『花押似真』で花押が確認できます。花押とは自著(サイン)の代わりに用いられる符号や記号のことです。幕臣が全権として条約に自著する際に花押も記載していたようです。
このサイトはこのように『江戸切絵図』に魅せられた管理人が、試行錯誤を繰り返した結果、『柳営補任』『武鑑』『花押似真』などと照合しながら幕末に要職を歴任した主な旗本たちの役職通称遍歴、屋敷地推定、家紋、花押を整理して投稿していきます。