本多忠陳

『江戸切絵図』本所/文久3年より抜粋、「本多寛司」表記区画を忠陳の屋敷地と推定。家禄は7000石

火消役、小普請組支配などを務めた大身旗本

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
安政4年11月3日1857年12月18日本所深川火事場見廻寛司
万延元年閏3月15日1860年5月5日火消役(市ヶ谷左内坂)寛司
慶応元年閏5月1日1865年6月23日小普請組支配寛司
慶応2年8月4日1866年9月12日寄合寛司御役御免

屋敷地推定

別地屋敷地

『江戸切絵図』市ヶ谷/安政4年より抜粋、「定火消御役屋敷 本多寛司」表記区画を忠陳の屋敷地(定火消役屋舗)と推定。同区画は嘉永4年の『江戸切絵図』では「定火消御役屋敷 渡辺圖書助」(渡辺恒)表記となっている

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/慶応2年)小普請支配より抜粋

家紋は石持ち地抜き立ち葵