◆「家禄」とは
「家禄」とは大名・旗本・御家人の「家」に代々受け継がれていく俸禄のことです。家禄は役職につかなくても支給されますが、有事の際に動員される義務が課せられます。そのための武芸を磨いたり、武具の手入れをしたり、防御施設の修繕をしたりといった準備をしておく必要があります。家禄は武士の家に支給されますので、その家で「家督」を継いだ当主にのみ支給されます。旗本の俸禄はこの「家禄」がベースになります。ここに就任する役職によって別途俸禄が追加されます。
◆「知行取」と「蔵米取(切米取)」とは
家禄の支給の方法は主に「知行取」と「蔵米取(切米取)」の2パターンがあります。まず「知行取」は「知行地」と呼ばれる領地が与えられ、年貢を徴収することで俸禄を得ます。知行地の収量を500石などと表します。一方「蔵米取(切米取)」は、玄米が幕府の蔵から直接支給されます。支給される蔵米(切米)の量を500俵などと表します。1石は約2.5俵にあたりますが、知行取の場合、知行地の収量のうちの約4割を年貢として徴収するので、500石の知行取の手取りは結果的に500俵くらいになるとされています。ただし、知行取は「領主」であるのに対して、蔵米取(切米取)は雇われの身ということで、知行取の方が格式が高いとされています。蔵米取には〇人扶持などと表記されることもあります。これは〇人の食い扶持として一人当たり1日5合が支給されるという意味で1人扶持はおよそ5俵に相当するとされています。
◆「役高」と「足高の制」とは
「江戸町奉行」や「勘定奉行」といった役職には「役高」が定められています。主な役職の役高は役職一覧に掲載していますので、そちらをご覧ください。「役高」とはその職に就任するために必要な家禄のことです。勘定奉行であれば3000石です。ただし、そうすると高い役高の役職に就任できる者が限られてしまいます。そのため、役高に達していない家禄の者も家禄を加増して抜擢していました。ところが、家禄は代々その家に受け継がれますので、抜擢のたびに加増していると幕府の財政を圧迫してしまいます。そこで享保期に導入されたのが足高の制となります。これは家禄が役高に満たない者がその役職に就任した際は在任中に限り、役高と家禄の差分を補填支給する制度です。幕末期もこの制度が適応されています。
◆「持高」と「役料」とは
家禄が役高以上のものが役職に就任する場合は、「持高」と言って原則としては家禄の他に俸禄は支給されません。ただし、長崎奉行のような遠国奉行などは赴任するのに経費が掛かるため、家禄や役高とは別に手当てが支給されます。これを「役料」といいます。主な役職の役料も役職一覧に掲載していますので、そちらをご覧ください。役高は最高で5000石ですので、家禄5000石以上の大身の旗本になると、どの旗本職に就任しても足高は支給されません。一方、役料は家禄に関係なく支給されますので、大身の旗本にとっては役料の高い役職の方が支給額が大きくなります。
◆「家督」と「惣領」とは
武家は「家督」を継いだ当主がその家を次代に継承していく責任があります。後継がいないまま、当主が死亡したりすると原則、その家は改易となります。そのため「惣領(大名は嫡子)」と呼ばれる次期当主を決めておかなければなりません。実子に適当な人物がいない場合は、養子を迎えてでも家を存続させる必要があります。幕職には原則として各家の家督を継承した当主が就任しますが、学問などの才を買われて、惣領の時点で幕職に抜擢されることがあります。惣領には家禄が支給されませんので、こういった場合、当主の家禄とは別に幕府から蔵米(切米)が支給されます。惣領には屋敷地は与えられず、当主の屋敷に部屋住みをしています。部屋住惣領などとも呼ばれます。
◆「寄合」と「小普請」とは
旗本家は全部で5千数百家あるとされています。このうち役職についているのは6割くらいで残りの4割くらいは無役となります。無役の旗本のうち家禄が3000石以上の大身の旗本は「寄合」に、3000石未満の少禄の旗本は「小普請組」に配属されます。家禄3000石未満の旗本でも「諸大夫」や「布衣」と呼ばれる上級職の就任経験がある場合、寄合入りします。これを「役寄合」といいます。また、家禄3000石の大身旗本や上級職就任者でも、懲罰として「小普請入り」させられることもあります。寄合や小普請組に配属された旗本は、役職を務めない代わりに原則として「寄合御役金」や「小普請金」を納めなければなりません。
◆「諸大夫」と「布衣」とは
大名や旗本は家格や役職に応じて官位を授けられ、官職に任じられることがあります。これを叙任といいます。官位とは「正四位上」「従五位下」などです。官職は「左衛門尉」や「豊前守」などです。いずれも律令制に基づく朝廷由来のものですが、江戸時代の武家官位は朝廷の官位とは別管理となっています。武家官位は権威付けのために叙任されますが、実務とは無関係です。五位の官位を「諸大夫」、六位の官位を「布衣」と呼びます。叙任されると官職名が通称とされます。上級の幕職には「諸大夫役」「布衣役」などがあります。こちらも役職一覧のページで紹介しています。諸大夫役に就任すると、多少時差はありますが、原則、叙任されます。布衣役は実際の叙任はされないようですが、幕府の儀式で一定の格式の装束の着用などが許されます。諸大夫役に就任していなくても褒賞として諸大夫に叙任されることもあります。
◆「御目見以上」と「永々御目見以上」とは
「旗本」とは、家禄が万石未満で、将軍に謁見が許される幕臣と定義されます。家禄が万石以上になると「大名」となり、将軍に謁見が許されない幕臣は「御家人」となります。この将軍に謁見が許される身分のことを「御目見以上」と呼びますが、優秀な御家人は特別に「御目見」を許され「旗本」扱いになります。ただし、原則として御目見を許されるのは一代限りです。ところが、さらに優秀な幕臣は、「布衣」や「諸大夫」となる上級職に抜擢され、子孫まで御目見が許されるようになります。この待遇のことを「永々御目見以上」と呼びます。つまり「永々御目見以上」とされて、ようやく正式に「家」が「旗本」に取り立てられたということになります。当サイトでは御家人だった幕臣が「永々御目見以上」とされた年月日が特定できれば、各旗本の役職通称遍歴の備考欄に記載しています。「永々御目見以上」記載がある人物は本人が優秀で抜擢されたことを意味しますので、要チェックです。
◆なぜ松平家はたくさんあるのか<その1>~将軍家と「御三家」「御三卿」について~
『江戸切絵図』を見ていると、なんと「松平〇〇」と表記される区画が多いことか。これが屋敷地を推定する際に実に厄介です。「松平家」とは家康が「徳川」と改名する前に名乗っていた家名です。江戸時代の「松平家」を簡単に説明すると「将軍家および徳川家の親戚筋の家名」なのですが、厳密にみるといくつかのパターンがあります。これらの「松平家」を見ていく前に、まず「徳川家」について確認します。幕末期に「徳川家」を名乗ったのは、徳川将軍家と御三家(尾張徳川家、紀州徳川家、水戸徳川家)、御三卿(田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家)の7家となります。御三家、御三卿は、将軍の兄弟から分かれた家で将軍家に後嗣がない場合、後嗣を出す資格を有する家として「徳川家」の名乗りを許されていました。ただし、『江戸切絵図』ではこれらの家の屋敷地について、「尾張殿」や「一橋殿」などと表記され、「徳川家」表記の屋敷地は確認できません。
◆なぜ松平家はたくさんあるのか<その2>~「御家門」と「御連枝」について~
将軍家の親戚筋でも「松平家」は将軍後嗣を出す資格は有しません。将軍の兄弟から分かれた家でも一度他家を継いでいる家は「御家門の松平家」を名乗りました。この将軍の兄弟から分かれた「御家門の松平家」には越前松平家、会津松平家、越智松平家があります。また、家康の母の於大の方の再婚先の久松家で生んだ「家康の異母弟たち」が松平家を称することを許され、久松松平家となります。さらに、長篠の合戦の功績で家康の長女の婿となった奥平家に生まれた「家康の外孫」も松平家を称することを許され、奥平松平家となります。この2家も「御家門の松平家」とされています。「御家門の松平家」のうち、越前松平家には分家が多く存在し、福井松平家、雲州松平家、結城松平家、明石松平家、津山松平家など大名だけでも8家あります。また、久松松平家も発足時から3家存在していますし、幕末期には4家の大名家と多く旗本家が存在しています。また、御三家も家の存続のために複数の分家を成立させていきます。こちらは「御連枝」といいますが、将軍継嗣の資格がない親戚筋ということからやはり「松平家」を名乗ります。尾張徳川家の御連枝には大窪松平家、四谷松平家、大田窪松平家。紀州徳川家の御連枝には西条松平家、高森松平家、葛野松平家、鷹司松平家。水戸徳川家の御連枝には高松松平家、森山松平家、石岡松平家、宍戸松平家があります。
◆なぜ松平家はたくさんあるのか<その3>~「庶流の松平家」について~
「御家門」「御連枝」はいずれも江戸時代に分かれれた文字通り徳川将軍家の親戚筋の家として原則、親藩とされます(久松松平家、奥平松平家の一部に譜代とされる家も存在します)。一方、徳川家康が三河の大名となる前から既に「家康を出した松平家」とは別に存在していた「松平家」も数多くあります。これらの家も広い意味では将軍家の親戚筋には違いありませんが、血統的にも遠縁ですし、家康による開幕までのいずれかのタイミングで臣従しており、徳川家の家臣、つまり酒井家や本多家などと同様に、譜代として扱われます。これらの松平家は「庶流の松平家」とされますが、『寛政重修諸家譜』に記載がある以下の14家が代表的です。竹谷松平家、形原松平家、大草松平家、五井松平家、深溝松平家、能見松平家、長沢松平家、大給松平家、滝脇松平家、福釜松平家、桜井松平家、東条松平家、藤井松平家、三木松平家。また、このほかにも大河内松平家や世良田松平家なども「庶流の松平家」とされます。これらの庶流「松平家」の中からは大名家となっている家もありますが、多くの旗本家を排出しています。これらの「庶流の松平家」に対して、のちに将軍家として「嫡流の松平家」的存在となる松平家を「安祥松平家」と言ったりもします。
◆なぜ松平家はたくさんあるのか<その4>~褒美の称号としての「松平家」~
「御家門」「御連枝」「庶流」はいずれも将軍家の親戚筋に違いありませんが、功績のあった大名などに対して「親戚同様の待遇」をするという意味合いで、特別に「松平」の名乗りを許されていた家が外様大名、譜代大名に存在します。外様大名では前田家、島津家、毛利家、伊達家、池田家、鍋島家、黒田家、浅野家、蜂須賀家、山内家の10家となります。このうち前田家、池田家、浅野家は分家の一部も含めて松平の名乗りを許されていました。譜代大名では、本庄家、松井家、戸田家、柳澤家などがあります。『江戸切絵図』においては、これらの家の屋敷地も原則「松平〇〇」と表記されます。これまで見てきた様々な「松平家」が入り乱れて、『江戸切絵図』にはやたらと「松平家」がみられるようになっています。
◆「奥高家」と「表高家」とは
忠臣蔵に登場する吉良上野介義央で知られている高家ですが、家禄万石未満で御目見以上なので、旗本に分類されます。ただし単に「高家」と言うと、役職としての「高家」と、家柄としての「高家」の二つの意味があることには注意を要します。厳密に役職としての高家を意味する用語としては「奥高家」が用いられます。『大概順』という幕職の席次を記載した資料によると、「奥高家」は旗本職の中で最高の席次に位置付けられています。この「奥高家」に就任できるのは幕末では26家に限定されており、この26家の旗本の家柄も「高家」と呼ばれます。当サイトではこの家柄としての「高家」を意味する際は「高家旗本」と表記します。高家旗本には織田家、今川家、武田家、大友家など大名の流れをくむか、大沢家、日野家、中条家といった公家の流れを汲む名家が選ばれています。高家旗本は原則として「奥高家」にしか就任せず、「奥高家」に就任していない高家旗本を「表高家」と呼びます。幕末期では今川範叙が大名職である若年寄に、織田信愛が陸軍奉行並、海軍奉行並、留守居に就任していますが、これらは稀有な事例となります。一般の旗本が若年寄支配なのに対して高家旗本は老中支配となります。「奥高家」に就任すれば朝廷への使者や勅使・院使の饗応の儀礼を司り、天皇への謁見もあり得ることから、一般的な大名より高い官位に叙任されることがあり、この点では大名以上の権威があります。一方、家禄は畠山家の5000石が最高で、大身の旗本とされる3000石以上の高家旗本は3家に留まっています。『武鑑』における高家旗本の記載は大名ほど詳細ではありませんが、名称については特別な表記がされています。「奥高家」については「家名」「官職名」「官位」「侍従」「諱」が併記される特別長い表記となっており、「表高家」でも「家名」「通称」「本姓」「諱」が併記され、無位無官でありながら一般の大名や旗本より長い表記にすることで、高家旗本の特別感を演出しているのだと思われます。一方、『江戸切絵図』においては一般の旗本と同様の表記がされており、一見して高家旗本とわかる表記は確認できません。
◆「交代寄合」とは
「高家」とは別の形で特別な待遇を受けた旗本の家格に「交代寄合」があります。「交代寄合」とは文字通り「参勤交代」をする「寄合」という意味です。一般の旗本は知行地を与えられている旗本でも「定府」や「在府」と言って、江戸屋敷に居を構えますが、「交代寄合」と呼ばれる旗本家は、多くの大名と同様に知行地と江戸屋敷の間で参勤交代をしていました。一般の旗本が若年寄支配なのに対して、「交代寄合」は大名と同様の「老中支配」です。また、一般の旗本が就く役職にはほとんど就かず、大番頭、講武所奉行、陸軍奉行といった大名旗本混在職に就任する「交代寄合」が稀に確認できます。「交代寄合」の中でも「表御礼衆」と呼ばれる19家が格式が高く、「四衆(那須衆、美濃衆、信濃伊那衆、三河衆」と呼ばれる12家が次に家格が高く、「四衆」に準ずる「交代寄合」として「米良家」「岩松家」があります(家数はいずれも幕末期の数)。「表御礼衆」は1家を除いて家禄は3000石を超え文字通り「寄合」と言えますが、「四衆」では家禄3000石を超える家は那須衆の3家に留まり、「米良家」は無高(ただし5000石格扱い)、岩松家は120石と小禄の家もあります。最上家、山名家、生駒家、金森家や豊臣秀吉麾下で活躍した竹中家、平野家など名門の武家の流れをくむ家が選ばれています。『武鑑』での表記も「表御礼衆」に限っては大名に準じた表記となっており、一般の旗本に比して詳細な記述として大名に準ずる待遇を表現していると思われます。
◆「上屋敷/下屋敷」と「御役屋舗」とは
大名屋敷には「上屋敷」「中屋敷」「下屋敷」など複数の屋敷を持つのが一般的です。大大名の中には「下屋敷」を複数持つ大名もありますが、小大名の中には「中屋敷」などを持たない大名もあります。『江戸切絵図』では、名前の右上に「上屋敷」は「家紋」、「中屋敷」は「■」、「下屋敷」は「●」を追記することで区別しています。御三家の附家老も大名ではありませんが、家禄が万石以上ということで、同様の表記がされています。一方、旗本屋敷は原則として「上屋敷」のみとなりますが、大身の旗本の中には「下屋敷」を持つ旗本も確認できます。『江戸切絵図』における旗本屋敷については「上屋敷」には何も追記されず、「下屋敷」にのみ名前の右上に「●」が追記されています。稀に「上屋敷」は確認できず、「下屋敷」しか確認できない旗本も存在します。これは、実際に「上屋敷」が存在しないのか、めずらしくない頻度で発生する屋敷地替えと『江戸切絵図』の出版年の関係でどの絵図にも記載されていないのかは判然としません。また、旗本が就任する役職の中には、「御役屋舗」と呼ばれる役宅が用意されている幕職があります。代表的な「御役屋舗」としては「南北の江戸町奉行」と「火消役」の役宅です。『江戸切絵図』では発行当時の就任者名とともに表記されています。一部の「勘定奉行」でも同様の表記が確認できます。これらの『江戸切絵図』で確認できる「御役屋舗」については、各旗本の記事の中で「別地屋敷地」として紹介するとともに、屋敷地推定地図の中でその場所を示しております。