「火事と喧嘩は江戸の華」と称されるほど、江戸は火事が頻発したため、これに対応するために幕府は「定火消」「大名火消」「町火消」の三火消の体制を整備して、消防体制を整えました。このうち武家火消である「定火消」と「大名火消」は、武家の紳士録である『武鑑』に就任者などの記載が確認できます。これらを見ながら「定火消」「大名火消」「火事場見廻」などについて見ていきましょう。
武鑑で読み解く「定火消」

まず、嘉永4年の出雲寺版の『大成武鑑』に記載されている「定火消」について見てみます。タイトル周りの記載からは、「定火消」が若年寄支配、布衣役であり、伺候席が菊之間南敷居外で、役高はなく、役料として300人扶持、配下として与力6騎、同心30人が宛がわれていることなどがわかります。変遷として、元々は8組あったものが、後に15組まで増え、さらに宝永元年に10組に定まったという記載が確認できます。ただし『柳営補任』では最初は4組が仰せつけられ、それが徐々に15組まで増えた経緯の記載が確認でき、『武鑑』の記載はこの途中からを切り取ったものと思われます。組数が10組だった時代が長いため、「定火消」は俗に「十人火消」と称されていましたが、安政2年には8組に減じ、その後徐々に組数を減らし、慶応4年には2組になってしまいました。また、出火の際の道具はいずれも白色だったと記載があります。また、須原屋版の『文久武鑑』にはこれらの情報に加えて、御役屋敷があることや、「同心羽織裾合印鼠色白フスベダシ」という記載が確認できます。これは各組30人宛がわれていた同心の羽織についての説明になります。

各組の一番上に組を率いる「火消役」の家紋及び人名が記載されています。人名には諱の記載はなく、書体も行書なので、格式としてはそこまで高くはありません。人名枠内には右上に父の通称、その下に前職の経歴を表す合印(見は火事場見廻、ヨは寄合、中川は中川番)、その下に家禄、人名の左には着任した年月が記載されています。このうち家禄に着目すると、いずれも4000~6000石の大身の旗本であることがわかります。定火消は、与力6騎、同心30人に加えて、役料として宛がわれている300人扶持で、100~300人の「臥煙」と呼ばれる火消人足を雇い、御役屋敷に常駐させていました。ただし、広域にわたる大火になると、人手はいくらあっても足りないため、80~120人の軍役を動員できる大身の旗本から選任されていたようです。このため、定火消は1組200~450人規模となり、大番や両番(書院番と小姓組)に匹敵する人数規模だったことがわかります。
次に人名の下の枠を見てみると、ここには弓組か鉄砲組かの記載、鑓印、拝領屋敷の所在地、その下の段には御役屋敷の所在地、纏、その下の段には同心羽織が描かれています。最下段には各組に配属されている与力の名前が列挙されています。タイトル周りでは与力は6騎宛がわれているという説明でしたが、嘉永4年時点では組によって6~8人が配属されていたことがわかります。このうち、御役屋敷に注目してみます。嘉永4年時点では四谷門内、小川町、駿河台、飯田町、市谷左内坂、溜池之端、赤坂門外、御茶之水、半蔵門外、八代洲河岸の10か所に配置されていたことがわかります。当サイトでも屋敷地推定地図にて紹介していますし、発刊当時の在任者として『江戸切絵図』に名前が記載されている旗本は、その紹介ページにおいて別地屋敷地として紹介していますので、チェックしてみてください。
武鑑で読み解く「大名火消」

一方、「大名火消」についても嘉永4年刊『大成武鑑』の記述を見てみます。タイトル周りには何も説明は確認できません。「大名火消」には大きく分けて「所々火消」と「方角火消」があり、上記の1ページ目には「所々火消」として、11か所の担当大名が12人記載されています。11か所の内訳としては江戸城周辺が5か所(大手方、櫻田方、二ノ丸、紅葉山、吹上上覧所)、各地の蔵が3か所(浅草、本所米蔵[2名]、本所猿江材木蔵)、将軍家菩提寺が2か所(上野[寛永寺]、増上寺)、学問所[昌平黌]1か所が割り当てられています。

次のページには「方角火消」として大手組、桜田組それぞれ3名、計6名が割り当てられています。こちらには火災現場を下記12の方角に分けて、それぞれ対応する詰所(江戸城近くの門や橋)が詳細に記載されています。
①麻布通増上寺:虎御門 ②芝金杉:幸橋 ③弓町御濱:数寄屋橋 ④築地:鍛冶橋
⑤濱町堺町:呉服橋 ⑥両國橋浅草御門:常盤橋 ⑦浅草ヨリ本郷:筋違橋 ⑧小石川:小石川御門
⑨小日向通音羽町:牛込御門 ⑩市谷大久保:市谷御門 ⑪四谷:四谷御門 ⑫鮫ヶ橋ヨリ青山:赤坂御門
所々火消、方角火消とも家紋、人名、纏、同心羽織が記載されています。人名表記の書体は大名であるため楷書ですが、諱の記載がないのは「定火消」と同様です。また、同心羽織については、須原屋版にも文字での説明がなく定かではありませんが、嘉永4年の「大名火消」では「定火消」と違って、すべて黒地で記載されていることが確認できます。ただし、黒地、白地が混在している年次の『武鑑』も確認できるため、各家でまちまちだったのかもしれません。「大名火消」は文久の改革で参勤交代が緩められるとともに、文久2年に廃止されます。これを受けて、文久3年版の『大成武鑑』では枠は残っていますが、誰も記載されていない空欄という状態で発刊されています。
武鑑で読み解く「火事場見廻」

最後に「出火之節見廻御役(火事場見廻)」についても嘉永4年刊『大成武鑑』の記載を見てみましょう。タイトル周りの説明から「火事場見廻」は若年寄支配で、伺候席が躑躅之間で、「寄合」からの出役であることがわかります。また「火事場見廻」は大概順にも記載が確認できないため、当サイトでは「火事場見廻」は「役職」ではなく「役割」と記載します。つまり「火事場見廻」しか担当していない場合、無役同然だと思われます。ただし「使番」も同じく火事場の見廻りの役割を有するため、「火事場見廻」は「使番」と兼務するケースが非常に多くみられます。この「使番」は「大概順」にも記載が確認できる「役職」ですので、兼務の場合、無役同然ではなくなります。また、先の「定火消」の人名の右に記載されている前職を示す合印を見ると「火事場見廻」から「定火消」に昇進する旗本が多いことがわかります。このことから「火事場見廻」は「定火消」の見習的な意味合いを有する「役割」だったと考えられます。
実際の配属を見てみると10人のうち2人は家禄が3000石未満の「役寄合」が割り当てられている点が「定火消」とは違います。また、すぐ後に「本所深川出火之節見廻御役」の記載も確認できます。こちらは「火事場見廻」が徳川吉宗の御代である享保7年に設置され、その2年後の享保9年に同様の役割を「本所」にも拡げるために、増員設置されたものです。「火事場見廻」は「定火消」と違って「御役屋敷」は用意されていないため、本所深川を担当する「火事場見廻」には「本所」に拝領屋敷を有する旗本が割り振られていることがわかります。

