『寛政譜』以降の旗本家数を推定

家臣団の名簿である幕府の『分限帳』などが散逸してしまっているため、寛政10年(1798年)に完成した『寛政重修諸家譜(寛政譜)』以降の旗本家数は判然としません。さらに登用、昇降格、改易などによって頻繁に増減するので、実数把握は困難の度を極めますが、およその旗本家数について、いくつかの史料を元に推定してみます。

『寛政譜』に記載されている旗本家数

『江戸幕府旗本人名事典 別巻』によると、『寛政譜』には寛政10年(1798年)時点で、5158家の旗本家が確認できるとあります。さらに、翌年の寛政11年(1799年)に、『寛政譜』を幕府に提出する際に添えられた『呈書』には、絶家となった御三卿清水家付の諸家を幕府が受け入れたため、一度に28家増加して5186家の記載があるとしています。また寛政3年に新設された「家格令」では、家格として「旗本」となるためには「永々御目見以上」の申渡が必要とされましたが、『寛政譜』や『呈書』には、寛政3年以降、「御目見以上」に昇進したものの、「永々御目見以上」の申渡は受けていない家、つまり、当人は旗本待遇ですが、家格としては「旗本」ではない家が14家含まれているとされていますので、差し引きすると、寛政11年時点で旗本は5172家となります。

「永々御目見以上」の申渡は幕末までに全部で何件なされたかは定かではありませんが、表右筆などが幕政を記録した『年録』の記載などから推定すると、およそ300家ほどが「旗本」に取り立てられたのではないかと思われます。これを加えると5472家になります。また寛政10年以降に新たに成立した大名は9家ありますが、このうち1家は大名の内分分知で新設された大名家なので、高直し、本家からの増額扶助、加増などで大名に昇格した旗本は8家になります。8家のうち1家は幕末までに再度旗本に降格しますので、大名への昇格による旗本家の純減は7家になります。これを差し引くと5465家になります。他にも御家人に降格した家、改易絶家した家などもあり、これらの実数は定かではありませんが、この減少分を考慮すると、幕末期にはおよそ5300~5400家くらいの旗本が存在したのではないかと推定します。

『国字名分集』に記載される家禄上位の旗本家数

次に文政12年(1829年)に発刊された『国字名分集』という史料を見てみます。本コラムのタイトル背景の図版は東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センター明治新聞雑誌文庫所蔵の『国字名分集』の抜粋です。冒頭の凡例に『国字名分集』の記載内容は、文政10年(1827年)閏6月時点のものと明記されています。乾坤2巻で構成されていて、上巻の「乾巻」には家禄が1万石未満1000石以上の旗本が833家、下巻の「坤巻」には1000石未満500石以上の旗本が842家記載されています。合計で1675家が記載されていますが、これはおそらく家禄の多寡で見た時の上位の旗本家がほぼ網羅されていると思われます。

残念ながら「諱」の記載はありませんが、「本姓」「本国」「家紋名」「家禄」「屋敷地住所」「姓名(通称)」が記載され、特殊な家には「姓名」の傍らにそれとわかるような表記がされます。特殊な家とは高家(25家)高家並(1家)交代寄合(30家)儒者(1家)典薬頭(2家)医家(29家)歌学家(1家)の7種合計89家になります。ちなみに500石未満を見ると高家並、儒者、典薬頭、歌学家は存在せず、高家は1家、交代寄合は2家だけ存在します。また幕医数は推定になりますが『官医分限帳』という史料には、文化8年(1811年)時点の幕医が191名記載されています。『寛政譜』の13年後、『国字名分集』の16年前の幕医の人数となります。191人のうち『寛政譜』に記載のある家は187家になります。『国字名分集』の時点でも190家前後の幕医がいたであろうと推定でき、500石以上は29家ですので、500石未満の幕医がおよそ160家くらいあったのではと推定できます。

また『国字名分集』記載の1675家のうち高家、交代寄合、儒者を除く家禄3000石以上の233家は、布衣以上の幕職就任経験がなくても、無役時に「小普請」ではなく「寄合」に配属される「寄合筋」の旗本となります。家禄が3000石以上か未満かで大きく処遇が変わってきますので、いわゆる「大身旗本」とは家禄3000石以上の旗本を意味するのが一般的だと思われます。