矢田堀鴻

『江戸切絵図』日本橋/安政6年より抜粋、「矢田堀景蔵」表記区画を鴻の屋敷地と推定。昌平黌学問吟味乙科及第(弘化5年)。家禄は100俵

幕府海軍を支え続けた叩き上げ

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
文久元年7月12日1861年8月17日両番格軍艦頭取景蔵
文久2年12月12日1861年1月31日二丸留守居格軍艦頭取景蔵布衣、100俵高加増
文久3年3月6日1863年4月23日軍艦奉行並景蔵高100俵
元治元年11月22日1864年12月20日寄合景蔵御役御免
慶応元年11月2日1865年12月19日大砲組之頭景蔵
慶応2年10月24日1866年11月30日軍艦頭景蔵
慶応2年12月18日1867年1月23日軍艦頭讃岐守諸大夫
慶応3年9月19日1867年10月16日軍艦奉行並讃岐守
慶応4年1月24日1868年2月17日海軍総裁讃岐守
慶応4年閏4月10日1868年5月31日讃岐守辞任
他に函陵と号す

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『慶応武鑑』(須原屋/慶応3年)軍艦頭より抜粋

家紋は丸に八つ矢車

史跡

宗源寺にある墓碑

命日は明治20年12月18日(1887年12月18日)

肖像

出典:『幕末名家寫眞集』第[1]集,[書写者不明],[19–]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2575328 (参照 2024-05-31)