八木補職

『江戸切絵図』小川町/慶応元年より抜粋、「八木但馬守」表記区画を補職の屋敷地と推定。家禄は4000石

初代の銃隊奉行の一人

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
安政5年12月15日1859年1月18日火事場見廻多三郎
万延元年12月24日1861年2月3日火消役(半蔵門外)多三郎
文久2年9月11日1862年11月2日目付多三郎
文久3年1月20日1863年3月9日小姓組番頭(三番組)多三郎上洛御用
文久3年1月23日1863年3月12日小姓組番頭但馬守諸大夫
文久3年8月13日1863年9月25日書院番頭(八番組)但馬守
文久3年12月3日1864年1月11日書院番頭但馬守上洛御用
慶応元年閏5月16日1865年7月8日書院番頭但馬守進発御供
慶応2年9月4日1866年10月12日銃隊奉行但馬守席次是迄通
慶応3年4月5日1867年5月8日寄合但馬守
慶応3年11月1日1867年11月26日寄合肝煎但馬守
慶応4年2月9日1868年3月2日寄合但馬守

屋敷地推定

別地屋敷地

『江戸切絵図』外桜田/万延元年(国会図書館蔵)より抜粋、「定火消御役屋舗 八木多三郎」表記区画を補職の屋敷地(定火消役屋舗)と推定。同区画は嘉永3年の『江戸切絵図』では「定火消御役屋舗 神保三千次郎」(神保相徳)表記となっている

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/元治2年)書院番頭より抜粋

家紋は糸輪に石持地抜き楓