松平正庸

『江戸切絵図』小川町/慶応元年より抜粋、「松平織部」表記区画を正庸の後継の屋敷地と推定。正庸は元治元年3月に卒しているが、『東京市史稿』によると、正庸生前の文久2年10月に同区画を拝領している記載が確認できる。同区画は嘉永3年の『江戸切絵図』では「川路左衛門尉」(川路聖謨)表記となっている。家禄は3000石。下野国都賀郡、常陸国河内郡に知行地を有する

新番頭から書院番頭まで昇進

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
万延2年2月18日1861年3月28日新番頭(二番組)織部
文久2年5月28日1862年6月25日日光奉行織部
文久2年7月3日1862年7月29日小姓組番頭(七番組)織部
文久2年10月10日1862年12月1日書院番頭(四番組)織部
元治元年3月5日1864年4月10日織部

屋敷地推定

屋敷地推定補足

『屋敷渡預絵図証文』第295冊,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2547975 (参照 2025-07-07)

『東京市史稿』には、文久2年10月25日(1862年12月16日)に飯田町の新見豊前守の上屋敷600坪を、松平織部が屋敷として拝領し、この屋敷地は東は道、西は徒頭の荒尾平八郎及び小姓組内藤甚郎、南は小普請組の江原鏸次郎、北は徒頭の荒尾平八郎の屋敷地に面しているとある。出典元は上記の『屋敷渡預絵図証文』となっている。この絵図が示す区画は慶応元年版の『江戸切絵図』の「松平織部」表記区画と同区画と推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/文久3年)書院番頭より抜粋、家紋は離れ六つ星