『江戸切絵図』深川/文久2年より抜粋、「浅野藤沢」表記区画を次謙の屋敷地と推定。家禄は1500石。安政2年の『江戸切絵図』では同区画は「浅野一学」表記となっている。このことから文久2年の屋敷地に併記される「浅野」は次謙の義兄である浅野氏祐を示していると推定。安政5年の『江戸切絵図』の同区画の表記も「浅野藤沢」だが、この「藤沢」は次謙の養父である「藤沢九太夫」であり、この頃から藤沢家は浅野家の屋敷地内を居所としていた可能性がある。ただし、次謙は藤沢家の養子となる文久2年以前は実父の幕府奥医師・桂川家の屋敷に部屋住していたと推定。
幕府最後の陸軍副総裁
役職通称遍歴
和暦 | 西暦 | 役職 | 通称 | 備考 |
---|---|---|---|---|
文久2年11月7日 | 1862年12月27日 | 主税 | 家督 | |
文久2年12月1日 | 1863年1月20日 | 講武所頭取 | 主税 | |
文久2年12月28日 | 1863年2月16日 | 歩兵頭 | 主税 | |
元治元年6月21日 | 1864年7月24日 | 歩兵奉行並 | 志摩守 | 野州辺討手 |
元治元年7月21日 | 1864年8月22日 | 寄合 | 志摩守 | 御役御免、逼塞 |
慶応元年7月8日 | 1865年8月28日 | 軍艦奉行並 | 志摩守 | |
慶応2年10月15日 | 1866年11月21日 | 軍艦奉行 | 志摩守 | |
慶応3年1月19日 | 1867年2月23日 | 歩兵奉行 | 志摩守 | |
慶応3年5月6日 | 1867年6月8日 | 陸軍奉行並 | 志摩守 | |
慶応4年1月24日 | 1868年2月17日 | 陸軍副総裁 | 志摩守 |
屋敷地推定
武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/慶応3年)陸軍奉行並より抜粋
家紋は丸に石持ち地抜き剣三つ星
肖像

『舊幕府』4(3),旧幕府雜誌社,1900-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1559425 (参照 2025-01-30)
史跡

谷中霊園にある墓碑
命日は明治14年5月2日(1881年5月2日)
幕府名士小伝(著:木村芥舟)
志摩守藤沢次謙、また備前守と称す。はじめ桂川主税という。のち出て藤沢氏を嗣ぐ。人と為り活達遠識あり。家世刀圭の様を屑しとせず、奮て洋銃行伍の法を研磨し、講武所教授に任ず。当時の操練はわずかに銃陣運動の事に止まり、いまだ三兵の奥議を講ずるに及はず。のち期年ならずして佛国人を雇い、西式を取り、我が陸軍の端緒を開きたるは、この人の提唱建議に出るもの多しとなり。元治元年、歩兵奉行に任じ、命をうけて常野二州の賊を征するに当り、罪を蒙りて職罷めらる。のち再び挙げられて軍艦奉行に任じ、また陸軍奉行並にすすむ。