『江戸切絵図』日本橋/嘉永3年より抜粋、「永井能登守」表記区画を尚志の養父(永井尚徳)の屋敷地(尚志は部屋住)と推定。昌平黌学問吟味甲科及第(弘化5年)。部屋住期は切米300俵、家禄は1000石
長崎海軍伝習所を導いた総監
役職通称遍歴
和暦 | 西暦 | 役職 | 通称 | 備考 |
---|---|---|---|---|
嘉永6年7月20日 | 1853年8月24日 | 徒頭 | 岩之丞 | 能登守養子 |
嘉永6年10月8日 | 1853年11月8日 | 目付 | 岩之丞 | 能登守養子 |
嘉永7年4月5日 | 1854年5月1日 | 目付 | 岩之丞 | 長崎在勤 |
嘉永7年8月23日 | 1854年10月14日 | 目付 | 岩之丞 | 日英和親条約調印(全権) |
安政2年11月19日 | 1855年12月27日 | 目付 | 玄蕃頭 | 諸大夫 |
安政2年12月23日 | 1856年1月30日 | 目付 | 玄蕃頭 | 日蘭和親条約調印(全権) |
安政4年3月26日 | 1857年4月20日 | 目付 | 玄蕃頭 | 帰府 |
安政4年12月3日 | 1858年1月17日 | 勘定奉行(勝) | 玄蕃頭 | 能登守養子 |
安政5年7月8日 | 1858年8月16日 | 外国奉行 | 玄蕃頭 | 切米300俵、能登守養子 |
安政5年7月10日 | 1858年8月18日 | 外国奉行 | 玄蕃頭 | 日蘭修好通商条約調印(全権) |
安政5年7月11日 | 1858年8月19日 | 外国奉行 | 玄蕃頭 | 日露修好通商条約調印(全権) |
安政5年7月18日 | 1858年8月26日 | 外国奉行 | 玄蕃頭 | 日英修好通商条約調印(全権) |
安政5年9月3日 | 1858年10月9日 | 外国奉行 | 玄蕃頭 | 日仏修好通商条約調印(全権) |
安政6年2月24日 | 1859年3月28日 | 軍艦奉行 | 玄蕃頭 | 高300俵 |
安政6年8月27日 | 1859年9月23日 | 玄蕃頭 | 御役御免、切米召上、部屋住 | |
文久2年7月5日 | 1862年7月31日 | 主水正 | 田沼玄蕃頭が若年寄 | |
文久2年8月7日 | 1862年8月31日 | 京都町奉行(東) | 主水正 | 能登守養子 |
文久2年11月7日 | 1862年12月27日 | 京都町奉行 | 主水正 | 家督、家禄1000石 |
文久4年2月9日 | 1864年3月16日 | 大目付 | 主水正 | |
慶応元年5月6日 | 1865年5月30日 | 寄合 | 主水正 | 辞任 |
慶応元年10月4日 | 1865年11月21日 | 大目付 | 主水正 | |
慶応元年10月27日 | 1865年12月14日 | 大目付/外国奉行 | 主水正 | 長州御用掛 |
慶応3年2月30日 | 1867年4月4日 | 若年寄格 | 主水正 | |
慶応3年12月15日 | 1868年1月9日 | 若年寄 | 主水正 | |
慶応4年2月9日 | 1868年3月2日 | 寄合 | 主水正 | 御役御免 |
慶応4年2月19日 | 1868年3月12日 | 主水正 | 逼塞 |
屋敷地推定
武鑑記載家紋
『大成武鑑』(出雲寺/安政6年)外国奉行より抜粋
家紋は永井奈花
史跡
本行寺にある墓碑
命日は明治24年7月1日(1891年7月1日)
肖像
出典:『幕末名家寫眞集』第[1]集,[書写者不明],[19–]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2575328 (参照 2024-05-31)
出典:『舊幕府』(5),旧幕府雜誌社,[1897]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1559396 (参照 2024-06-05)
出典:岡田霞船 編『徳川義臣伝 : 明治戦記』甲,金松堂,明16.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/778458 (参照 2024-06-01)