『江戸切絵図』小川町/慶応元年より抜粋、「中村石見守」表記区画を時萬の屋敷地と推定。家禄は100俵→200俵
対外交渉に手腕を振るう下田奉行
役職通称遍歴
和暦 | 西暦 | 役職 | 通称 | 備考 |
---|---|---|---|---|
嘉永4年8月18日 | 1851年9月13日 | 勘定組頭 | 為彌 | 永々御目見以上 |
嘉永6年10月17日 | 1853年11月17日 | 勘定組頭 | 為彌 | 下田派遣 |
安政2年5月24日 | 1855年7月7日 | 勘定吟味役 | 為彌 | 高100俵に加増 |
安政3年10月20日 | 1856年11月17日 | 勘定吟味役 | 為彌 | 外国貿易取調掛 |
安政4年4月27日 | 1857年5月20日 | 下田奉行 | 為彌 | 高200俵に加増 |
安政4年5月7日 | 1857年5月29日 | 下田奉行 | 出羽守 | 諸大夫 |
安政4年5月26日 | 1857年6月17日 | 下田奉行 | 出羽守 | 日米追加条約調印(全権) |
安政5年6月2日 | 1858年7月12日 | 下田奉行 | 出羽守 | 露使来航時措置の指揮を請う |
安政6年4月15日 | 1859年5月17日 | 下田奉行 | 石見守 | 米総領事館書記官に日米修好通商条約本書交付 |
万延元年閏3月15日 | 1860年5月5日 | 普請奉行 | 石見守 | |
文久2年6月15日 | 1862年7月11日 | 寄合 | 石見守 | 御免 |
元治元年5月8日 | 1864年6月11日 | 佐渡奉行 | 石見守 | |
慶応元年10月17日 | 1865年12月4日 | 寄合 | 石見守 | 御役御免 |
屋敷地推定
武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/安政6年)下田奉行より抜粋
家紋は丸に片喰一文字
史跡

法蔵寺にある墓碑
命日は明治14年10月24日(1881年10月24日)
幕府名士小伝(著:木村芥舟)
出羽守中村時萬、始め為弥と称す。容貌短少短狐のごとしといえどもその中剛硬犯すべからざるの気象あり。安政三年、下田奉行に任じ、米国公使(ハリス)入京の事を議し大に尽す所あり。この人また下僚に在りて為弥と称せしとき、筒井政憲、川路聖謨に従て長崎に赴き、露国使節(プチャーチン)と往来商議せしが我より使節に書を贈ることありて、時萬これを斉して露国軍艦に到りしに使節その文意の己れに不利なるを知り拒んで受けず。時萬、百方これを論ずれども聴かず。しからば我もまた使命を奉じこの書簡を持ち来たるに受けざれば、吾寸歩もこの艦を退くまじ、この艦の到る所に従い行きその都城に至り直ちに之を国帝に献せんのみと、断然決心の気あるを見て使節大に困却し、ついにその書を受領せりと。この事阿部執政(阿部正弘)の聞く所となりて、その年勘定吟味役に進み、また下田奉行に抜擢せられたりといえり。