『江戸切絵図』番町/嘉永3年より抜粋、「筒井紀伊守」表記区画を政憲の屋敷地と推定。昌平黌学問吟味甲科及第(享和3年)。家禄は2200石→2700石。下曽根信之は実子
異船到来の難局に再抜擢された識者
役職通称遍歴
和暦 | 西暦 | 役職 | 通称 | 備考 |
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文化7年12月26日 | 1811年1月20日 | 二丸留守居 | 右馬介 | 左膳倅 |
文化9年8月17日 | 1812年9月22日 | 西丸徒頭 | 佐次右衛門 | 左膳倅 |
文化10年9月20日 | 1813年10月13日 | 西丸目付 | 佐次右衛門 | |
文化12年9月6日 | 1815年10月8日 | 目付 | 佐次右衛門 | |
文化13年8月10日 | 1816年9月1日 | 目付 | 佐次右衛門 | 家督、高2200石 |
文化14年7月21日 | 1817年9月2日 | 長崎奉行 | 佐次右衛門 | |
文化14年8月12日 | 1817年9月22日 | 長崎奉行 | 和泉守 | 諸大夫 |
文政4年1月29日 | 1821年3月3日 | 江戸町奉行(南) | 和泉守 | |
文政5年9月3日 | 1822年10月17日 | 江戸町奉行 | 伊賀守 | 松平和泉守が老中 |
天保9年4月14日 | 1838年5月7日 | 江戸町奉行 | 紀伊守 | 松平伊賀守が寺社奉行 |
天保11年6月28日 | 1840年7月26日 | 江戸町奉行 | 紀伊守 | 500石加増、高2700石 |
天保12年4月28日 | 1841年6月17日 | 西丸留守居 | 紀伊守 | |
天保13年3月23日 | 1842年5月3日 | 寄合 | 紀伊守 | |
弘化2年7月19日 | 1845年8月21日 | 先手次席 | 紀伊守 | 学問所御用 |
弘化4年2月21日 | 1847年4月6日 | 西丸留守居(上席) | 紀伊守 | 学問所御用 |
嘉永4年12月21日 | 1852年1月12日 | 西丸留守居 | 肥前守 | 内藤紀伊守が老中 |
嘉永6年10月8日 | 1853年11月8日 | 大目付格西丸留守居 | 肥前守 | 長崎派遣、露使応接掛 |
嘉永7年7月24日 | 1854年8月17日 | 大目付 | 肥前守 | 海防掛、軍制改正掛 |
嘉永7年10月17日 | 1854年12月6日 | 大目付 | 肥前守 | 下田派遣、露使対応掛 |
安政元年12月21日 | 1855年2月7日 | 大目付 | 肥前守 | 日露和親条約調印(全権) |
安政4年1月22日 | 1857年2月16日 | 槍奉行 | 肥前守 | 足高是迄通 |
屋敷地推定
武鑑記載家紋
『安政武鑑』(須原屋/安政2年)大目付より抜粋
家紋は六曜
花押
[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[1],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552686 (参照 2024-08-03)
史跡
常圓寺にある墓碑
命日は安政6年6月8日(1859年7月7日)