竹内保徳

『江戸切絵図』小川町/安政7年(国土地理院蔵)より抜粋、「竹内下野守」表記区画を保徳の屋敷地と推定。家禄は200俵→500石。同区画は嘉永3年の『江戸切絵図』においては「岡田利嘉二郎」(岡田忠養)表記、文久3年の『江戸切絵図』においては「水野筑後守」(水野忠徳)表記となっている

文久遣欧使節正使として各国首脳と会見

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
天保14年7月1日1843年7月27日勘定組頭格清太郎永々御目見以上
天保15年1月19日1844年3月7日勘定組頭清太郎
嘉永5年閏2月28日1852年4月17日勘定吟味役清太郎海防掛
嘉永5年6月17日1852年8月2日勘定吟味役清太郎西丸普請掛
嘉永5年12月24日1853年2月2日勘定吟味役清太郎西丸普請褒賞
嘉永6年8月28日1853年9月30日勘定吟味役清太郎内海台場普請及大筒鋳立掛
嘉永6年11月2日1853年12月2日勘定吟味役清太郎大船製造掛
嘉永7年4月27日1854年5月23日勘定吟味役清太郎下田派遣
嘉永7年6月30日1854年7月24日箱館奉行清太郎200俵加増
嘉永7年閏7月15日1854年9月7日箱館奉行下野守諸大夫
万延2年1月20日1861年3月1日勘定奉行(勝)下野守
文久元年3月24日1861年5月3日勘定奉行/外国奉行下野守遣欧使節正使拝命
文久元年12月22日1862年1月21日勘定奉行/外国奉行下野守品川出港
文久2年3月15日1862年4月13日勘定奉行/外国奉行下野守仏皇帝ナポレオン三世謁見
文久2年4月11日1862年5月9日勘定奉行/外国奉行下野守英外務大臣に親書法廷
文久2年5月9日1862年6月6日勘定奉行/外国奉行下野守ロンドン覚書調印(全権)
文久2年6月5日1862年7月1日勘定奉行/外国奉行下野守蘭王ウイレム三世謁見
文久2年6月25日1862年7月21日勘定奉行/外国奉行下野守普王ウイルヘルム一世謁見
文久2年7月19日1862年8月14日勘定奉行/外国奉行下野守露皇帝アレクサンドル二世謁見
文久2年閏8月9日1862年10月2日勘定奉行/外国奉行下野守パリ覚書調印(全権)
文久2年閏8月29日1862年10月19日勘定奉行/外国奉行下野守葡王ルイ一世謁見
文久2年12月9日1863年1月28日勘定奉行/外国奉行下野守帰朝
文久3年1月12日1863年3月1日勘定奉行/外国奉行下野守渡欧褒賞、300石加増
文久3年2月9日1863年3月27日勘定奉行/外国奉行下野守大坂沿岸砲台築造用掛
文久3年12月20日1864年1月28日勘定奉行/外国奉行下野守西丸普請掛
元治元年4月8日1864年5月13日勘定奉行/外国奉行下野守朝鮮信使来聘用掛
元治元年5月25日1864年6月28日勘定奉行/外国奉行/大坂町奉行下野守
元治元年8月5日1864年9月5日大坂町奉行下野守席次足高是迄通
元治元年8月13日1864年9月13日西丸留守居下野守
慶応元年12月10日1866年1月26日西丸留守居下野守横浜製鉄所御用引受取扱
慶応3年2月1日1867年3月6日下野守

屋敷地推定

別地屋敷地

『江戸切絵図』小日向/万延元年より抜粋、「御勘定奉行 山内下野守」表記区画を保徳の屋敷地(勘定奉行役宅か)と推定。勘定奉行就任者で万延元年ごろに「下野守」を称するのは保徳のみにより、江戸切絵図の誤記と推定。同区画は嘉永3年の『江戸切絵図』においては「御勘定奉行御役宅 石河土佐守」(石河政平)表記となっている

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/安政6年)箱館奉行より抜粋

家紋は六曜

史跡

養国寺にある墓碑

命日は慶応3年2月1日(1867年3月6日)

肖像

出典:『幕末名家寫眞集』第[1]集,[書写者不明],[19–]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2575328 (参照 2024-05-31)