戸川安鎮

『江戸切絵図』小川町/嘉永3年より抜粋、「戸川播磨守」は安鎮の父である戸川安清の表記だが、家督を継ぐことがなかった安鎮はこの区画に部屋住みしていたと推定。切米は300俵

海防掛目付として活躍

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
文政8年12月7日1826年1月14日小納戸鏜太郎
文政8年12月13日1826年1月20日西丸小納戸鏜太郎
天保3年7月19日1832年8月14日西丸小姓鏜太郎
天保8年4月2日1837年5月6日小姓信濃守
天保10年2月26日1839年4月9日二丸留守居信濃守
弘化2年7月8日1845年8月10日西丸目付中務少輔
弘化3年閏5月20日1846年7月13日目付中務少輔勝手掛、海防掛
弘化4年7月22日1847年9月1日目付中務少輔朝鮮信使来聘御用
嘉永3年2月29日1850年4月1日目付中務少輔近海岸見分御用
嘉永5年5月27日1852年7月14日目付中務少輔西丸普請掛
嘉永7年5月3日1854年5月29日中務少輔

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/嘉永3年)目付より抜粋

家紋は三つ盛杉

花押

[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[1],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552686 (参照 2025-05-02)

幕府名士小伝(著:木村芥舟)

中務少輔戸川安鎮、少時宮中に仕へ、多病を以て出て二丸留守居となる。弘化三年目附に任ず。識量清遠、常に人材を薦引するをもって己れが任となし、續てこの局に入る者堀利熈、永井尚志、岩瀬忠震、大久保忠寛等にして一時衆賢抜茅の勢あり。当時海防の事おおいに起り、鋳砲製艦諸工事幅湊し安鎮命をうけて日夜奔走督責して、安眠するの暇なきにより、宿痾またおおいに発してついに起たず。人皆之を惜めり。