土岐頼旨

『江戸切絵図』赤坂/嘉永3年より抜粋、「土岐丹波守」表記区画を頼旨の屋敷地と推定。家禄は3000石→3500石。土岐頼礼は後継、小出秀実は実子

番方・役方の両方で要職を歴任

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
文政5年9月26日1822年11月9日火事場見廻帯刀高3000石
文政10年8月24日1827年10月14日寄合肝煎帯刀
文政12年12月24日1830年1月18日西丸目付帯刀
文政13年11月20日1831年1月3日目付主膳
天保7年1月11日1836年2月27日普請奉行主膳
天保7年12月16日1837年1月22日普請奉行大隅守諸大夫
天保9年2月12日1838年3月7日作事奉行大隅守
天保9年3月13日1838年4月7日作事奉行丹波守西丸普請掛
天保10年3月18日1839年5月1日作事奉行丹波守西丸普請褒賞
天保11年3月2日1840年4月4日作事奉行丹波守500石加増
天保12年5月13日1841年7月1日勘定奉行(公)丹波守
天保12年6月12年1841年7月29日勘定奉行(勝)丹波守
天保12年6月19日1841年8月5日勘定奉行丹波守朝鮮信使来聘用掛
天保13年4月15日1842年5月24日書院番頭(三番組)丹波守
天保14年閏9月28日1843年閏9月28日書院番頭格下田奉行丹波守
天保15年2月8日1844年3月26日書院番頭格浦賀奉行丹波守席次是迄通
弘化2年3月20日1845年4月26日書院番頭格大目付丹波守席次是迄通、鉄砲改
弘化3年3月28日1846年4月23日大番頭(三番組)丹波守
嘉永5年7月8日1852年8月22日留守居丹波守
安政2年8月9日1855年9月19日留守居格大目付丹波守海防掛、鉄砲改
安政3年10月20日1856年11月17日留守居格大目付丹波守外国貿易取調掛
安政4年1月28日1857年2月22日留守居格大目付丹波守朝鮮信使来聘用掛
安政5年1月27日1858年3月12日留守居格大目付丹波守琉球人参府御用
安政5年5月6日1858年6月16日大番頭(九番組)丹波守
安政6年8月29日1859年9月25日大番頭(一番組)丹波守
安政6年10月19日1859年11月13日寄合丹波守御役御免、隠居、差控

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/嘉永6年)留守居より抜粋

家紋は桔梗

花押

[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[1],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552686 (参照 2024-08-03)