酒井忠行

『江戸切絵図』愛宕下/万延2年より抜粋、「酒井對馬守」表記区画を忠行の屋敷地と推定。高2000石

日葡修好通商条約調印の全権の一人

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
文政10年12月19日1828年2月4日御伽友之丞隠岐守倅
天保4年1月小姓(家定公)友之丞隠岐守倅
天保11年12月4日1840年12月27日中奥小姓近江守隠岐守倅
弘化4年7月4日1847年8月14日中奥小姓近江守/対馬守家督、高2000石
嘉永3年12月15日1851年1月16日小普請組支配対馬守
嘉永5年10月29日1852年12月10日西丸小姓組番頭(四番組)対馬守
嘉永6年9月27日1853年10月29日小姓組番頭(十番組)対馬守
嘉永7年9月20日1854年11月10日寄合対馬守辞任
安政3年3月15日1856年4月19日小姓組番頭(六番組)対馬守
安政6年2月24日1859年3月28日外国奉行隠岐守席次是迄通
安政6年6月4日1859年7月3日外国奉行/神奈川奉行隠岐守
万延元年6月17日1860年8月3日外国奉行/神奈川奉行隠岐守日葡修好通商条約調印(全権)
万延元年9月15日1860年10月28日勘定奉行(公)隠岐守
文久2年閏8月3日1862年9月26日勘定奉行但馬守政事改革用掛
文久2年閏8月22日1862年10月15日勘定奉行但馬守将軍上洛用掛
文久2年10月24日1862年12月15日大目付但馬守
文久3年7月12日1863年8月25日側衆但馬守
元治元年8月6日1864年9月6日側衆但馬守1000俵蔵米足高
慶応元年4月28日1865年5月22日菊間縁頬詰但馬守御役御免

屋敷地推定

別地屋敷地

『江戸切絵図』小川町/安政7年(国土地理院蔵)より抜粋、「酒井隠岐守」表記区画を忠行の屋敷地(勘定奉行役屋舗か)に推定。同区画は嘉永3年の『江戸切絵図』では「御勘定御奉行役屋舗 池田播磨守」(池田頼方)表記となっている

武鑑記載家紋

『文久武鑑』(須原屋/文久元年)勘定奉行より抜粋

家紋は丸に剣片喰

花押

[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[2],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552687 (参照 2024-08-04)