佐々木顕発

『江戸切絵図』下谷/嘉永4年より抜粋、「佐々木脩輔」表記区画を顕発の屋敷地と推定。同区画は嘉永4年の『江戸切絵図』では「野々山丹後守」(野々山兼寛)表記となっている。家禄は100俵→200俵

失脚しても何度も這い上がる叩き上げ

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
天保13年4月6日1842年5月15日勘定組頭修輔永々御目見以上
天保14年閏9月20日1843年11月11日勘定吟味役修輔海防掛、100俵高に加増
天保14年12月13日1844年2月1日勘定吟味役修輔朝鮮信使来聘用掛
天保15年5月14日1844年6月29日勘定吟味役修輔本丸普請掛
嘉永4年7月28日1851年8月24日奈良奉行修輔200俵高に加増
嘉永4年10月15日1851年11月8日奈良奉行信濃守諸大夫
嘉永5年10月8日1852年11月19日大坂町奉行(東)信濃守
安政4年2月24日1857年3月19日小普請奉行信濃守
安政5年5月24日1858年7月4日勘定奉行(公)信濃守
安政6年2月2日1859年3月6日寄合信濃守御役御免、差控
安政6年10月27日1859年11月21日小普請信濃守
文久元年7月15日1861年8月20日小普請飛騨守遠山信濃守が若年寄
文久2年7月6日1862年8月1日徒頭(二番組)飛騨守
文久2年10月10日1862年12月1日作事奉行飛騨守
文久3年4月16日1863年6月2日江戸町奉行(北)飛騨守
文久3年4月23日1863年6月9日西丸留守居飛騨守
文久3年4月28日1863年6月14日西丸留守居信濃守酒井飛騨守が若年寄
文久3年8月2日1863年9月14日江戸町奉行(南)信濃守
元治元年5月25日1864年6月28日江戸町奉行/外国奉行信濃守
元治元年6月29日1864年8月1日外国奉行信濃守高200俵
元治元年7月25日1864年8月26日寄合信濃守御役御免
他に簡斎と号す

屋敷地推定

別地屋敷地

『江戸切絵図』大名小路/文久3年より抜粋、「南町御奉行所 佐々木信濃守」表記区画を顕発の屋敷地(南町奉行役屋舗)と推定。同区画は嘉永2年の『江戸切絵図』では「南町御奉行御役屋敷 遠山左衛門尉」(遠山景元)表記、安政7年の『江戸切絵図』では「南町御奉行御役屋敷 池田播磨守」(池田頼方)表記、慶応元年の『江戸切絵図』では「南町御奉行所 山口駿河守」(山口直毅)表記となっている

武鑑記載家紋

『安政武鑑』(須原屋/安政2年)大坂町奉行より抜粋

家紋は丸に隅立て四ツ目

史跡

谷中霊園にある墓碑

命日は明治9年12月31日(1876年12月31日)