窪田清音

『江戸切絵図』番町/元治元年より抜粋、「窪田助太郎」表記区画を清音の屋敷地と推定。家禄は200俵

講武所頭取を務めた兵学者

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
嘉永4年12月26日1852年1月17日助太郎家督
安政2年2月5日1855年3月22日講武所頭取助太郎
安政5年11月16日1858年12月20日留守居番助太郎
文久3年1月13日1863年3月2日持筒頭源太夫
元治元年9月20日1864年10月20日寄合源太夫

屋敷地推定

屋敷地推定補足

出典:東京市 編『御府内沿革図書』第一篇下,東京市. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3436304 (参照 2025-08-28)

同地を描く文久元年の『御府内沿革図書』に「窪田源太夫」と清音の表記が確認できる。遅くとも文久元年以降、清音は「窪田源太夫」と称されていたようだが、元治元年の『江戸切絵図』ではそれ以前の通称である「窪田助太郎」の表記のまま更新が漏れていると思われる。

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/文久2年)留守居番より抜粋、家紋は石持ち地抜き三つ柏

史跡

玉窓寺にある墓碑、命日は慶応2年12月25日(1867年1月30日)