河田煕

『江戸切絵図』番町/安政5年(国土地理院蔵)より抜粋、「船橋勘左エ門」表記区画を煕の屋敷地と推定。家禄は200俵

儒者から大目付まで昇進

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
安政6年6月6日1859年7月5日儒者貫之助家督
万延元年奥右筆貫之助
文久2年6月6日1862年7月2日儒者貫之助
文久2年10月11日1862年12月2日外国奉行支配組頭貫之助
文久3年11月28日1864年1月7日目付貫之助
文久3年12月目付相模守諸大夫
元治元年7月23日1864年8月24日小普請相模守
慶応3年2月21日1867年3月26日蕃書調所頭取相模守高200俵
慶応4年2月11日1868年3月4日目付相模守
慶応4年2月29日1868年3月22日大目付相模守
他に貫堂と号す

屋敷地推定

屋敷地推定補足

出典:東京市 編『御府内沿革図書』第一篇下,東京市. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3436304 (参照 2025-02-28)

『東京市史稿』には、文久元年7月に船橋甚左衛門の上地にともない、河田貫之助(煕)が裏壱番町に250坪の屋敷地を拝領したと記載されている。上記の文久元年の同地を描く『御府内沿革図』には秋山兵三郎の隣地に「河田貫之助」表記区画が確認できる。これらの史料より『江戸切絵図』番町/安政5年の「船橋勘左衛門」表記区画の一部を後の河田煕の屋敷地と推定

武鑑記載家紋

『文久武鑑』(須原屋/文久4年)目付より抜粋

家紋は丸に抱き茗荷

史跡

天王寺墓地にある墓碑

命日は明治33年3月11日(1900年3月11日)

肖像

『幕末名家寫眞集』第[1]集,[書写者不明],[19–]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2575328 (参照 2025-02-28)

『大日本名家肖像集』,経済雑誌社,1907. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1875517 (参照 2025-04-03)