『江戸切絵図』深川/文久2年より抜粋、「河津三郎太郎」表記区画を祐邦の屋敷地と推定。家禄は100俵
少禄ながら要職歴任後に若年寄まで立身
役職通称遍歴
和暦 | 西暦 | 役職 | 通称 | 備考 |
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嘉永7年閏7月28日 | 1854年9月20日 | 箱館奉行支配調役 | 三郎太郎 | |
安政元年12月27日 | 1855年2月13日 | 箱館奉行支配組頭 | 三郎太郎 | 永々御目見以上 |
安政5年2月27日 | 1858年4月10日 | 箱館奉行支配組頭 | 三郎太郎 | 布衣、高100俵に加増 |
文久3年4月11日 | 1863年5月28日 | 新徴組支配 | 三郎太郎 | |
文久3年9月28日 | 1863年11月9日 | 外国奉行 | 三郎太郎 | |
文久3年11月28日 | 1864年1月7日 | 外国奉行 | 三郎太郎 | 横浜鎖港談判副使拝命 |
文久3年12月3日 | 1864年1月10日 | 外国奉行 | 伊豆守 | 渡航滞在費洋銀50万弗請う |
元治元年7月7日 | 1864年8月8日 | 外国奉行 | 駿河守 | 松前伊豆守が老中格 |
元治元年7月23日 | 1864年8月24日 | 小普請 | 駿河守 | 御役御免、逼塞 |
慶応2年3月16日 | 1866年4月30日 | 歩兵頭並 | 駿河守 | |
慶応2年8月26日 | 1866年10月4日 | 関東郡代 | 駿河守 | |
慶応3年1月26日 | 1867年3月2日 | 勘定奉行並 | 伊豆守 | 都築駿河守が同役、勤候内2000俵高 |
慶応3年8月15日 | 1867年9月12日 | 長崎奉行 | 伊豆守 | |
慶応3年9月15日 | 1867年10月12日 | 勘定奉行格長崎奉行 | 伊豆守 | |
慶応4年1月24日 | 1868年2月17日 | 外国副総裁 | 伊豆守 | |
慶応4年2月6日 | 1868年2月28日 | 外国総裁 | 伊豆守 | |
慶応4年2月29日 | 1868年3月22日 | 若年寄 | 伊豆守 |
屋敷地推定
武鑑記載家紋
『文久武鑑』(須原屋/文久4年)外国奉行より抜粋
家紋は庵に木瓜
史跡
玉林寺にある墓碑
命日は明治6年3月27日(1873年3月27日)
肖像
出典:『幕末名家寫眞集』第[1]集,[書写者不明],[19–]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2575328 (参照 2024-05-31)