川路聖謨

『江戸切絵図』小日向/万延元年より抜粋、「川路左衛門尉」表記区画を聖謨の屋敷地と推定。家禄は200俵→500石。井上清直は実弟

対露交渉を任された叩き上げの能吏

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
天保6年11月28日1836年1月16日勘定吟味役彌吉
天保11年6月8日1840年7月6日佐渡奉行三左衛門家禄200俵に加増
天保12年6月12日1841年7月29日小普請奉行三左衛門
天保12年12月16日1842年1月27日小普請奉行左衛門尉諸大夫
天保14年10月10日1843年12月1日普請奉行左衛門尉
弘化3年1月11日1846年2月6日奈良奉行左衛門尉
嘉永4年6月24日1851年7月22日大坂町奉行左衛門尉
嘉永5年9月10日1852年10月22日勘定奉行(公)左衛門尉家禄500石に加増
嘉永6年8月28日1853年9月30日勘定奉行左衛門尉内海台場普請及大筒鋳立掛
嘉永6年10月8日1853年11月8日勘定奉行左衛門尉露使応接掛、長崎派遣
嘉永7年4月2日1854年4月28日勘定奉行左衛門尉下田表取締掛
嘉永7年7月24日1854年8月17日勘定奉行左衛門尉軍制改正掛
嘉永7年10月17日1854年12月6日勘定奉行左衛門尉露使応接掛、下田派遣
安政元年12月21日1855年2月7日勘定奉行左衛門尉日露和親条約調印(全権)
安政2年1月18日1855年3月6日勘定奉行左衛門尉露使応接掛、下田派遣
安政2年6月5日1855年7月18日勘定奉行左衛門尉蕃書翻訳用掛
安政2年12月5日1856年1月12日勘定奉行左衛門尉江戸内海台場修復用掛
安政3年10月20日1856年11月17日勘定奉行左衛門尉外国貿易取調掛
安政4年8月14日1857年10月1日勘定奉行左衛門尉米国総領事上府用掛
安政5年5月6日1858年6月16日西丸留守居左衛門尉
安政6年8月27日1859年9月23日敬斎御役御免、隠居
文久3年5月11日1863年6月26日外国奉行敬斎
文久3年10月4日1863年11月14日敬斎辞任

屋敷地推定

別地屋敷地

『江戸切絵図』小川町/嘉永3年より抜粋、「川路左衛門尉」表記区画を聖謨の屋敷地と推定。同区画は慶応元年の『江戸切絵図』において「松平織部」(松平庸)表記となっている

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/嘉永3年)奈良奉行より抜粋

家紋は亀甲に三ツ星

花押

[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[1],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552686 (参照 2024-08-04)

史跡

大正寺にある墓碑

命日は慶応4年3月15日(1868年4月7日)

肖像

出典:『大日本名家肖像集』,経済雑誌社,1907. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1875517 (参照 2024-06-06)