川村修就

『江戸切絵図』番町/元治元年より抜粋、「川村對馬守」表記区画を修就の屋敷地と推定。家禄は200俵→300俵。明楽茂正は義兄弟

御庭番としての才を買われた初代新潟奉行

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
天保9年2月3日1838年2月26日裏門切手番之頭清兵衛
天保12年5月13日1841年7月1日勘定吟味役清兵衛
天保14年6月17日1843年7月14日新潟奉行清兵衛家禄200俵に加増
嘉永2年12月27日1850年2月8日新潟奉行対馬守諸大夫
嘉永5年7月30日1852年9月13日堺奉行対馬守
嘉永7年5月29日1854年6月24日大坂町奉行(西)対馬守
安政2年5月1日1855年6月14日長崎奉行対馬守家禄300俵に加増
安政2年12月23日1856年1月30日長崎奉行対馬守日蘭和親条約調印(全権)
安政4年1月22日1857年2月16日小普請奉行対馬守
安政4年4月15日1857年5月8日西丸留守居対馬守
安政7年1月15日1860年2月6日西丸留守居壱岐守安藤対馬守が老中
万延2年1月23日1861年3月4日大坂町奉行(東)壱岐守
文久3年5月6日1863年6月21日西丸留守居壱岐守
元治元年8月18日1864年9月18日寄合壱岐守御役御免
他に閑斎と号す

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/嘉永2年)新潟奉行より抜粋

家紋は丸に九枚笹

史跡

正受院にある墓碑

命日は明治11年4月8日(1878年4月8日)