古賀増(古賀謹一郎)

『江戸切絵図』小川町/慶応元年より抜粋、「古賀謹一郎」表記区画を増の屋敷地と推定。家禄は200俵

儒者ながら蕃書調所の開設に尽力

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
弘化3年12月24日1847年2月9日儒者見習謹一郎
弘化4年3月28日1847年5月12日儒者本役謹一郎
嘉永6年10月8日1853年11月8日儒者謹一郎布衣、役料100俵
安政2年8月1日1855年9月11日二丸留守居謹一郎
安政2年8月30日1855年10月10日蕃書調所頭取/二丸留守居謹一郎
万延元年12月29日1861年2月8日留守居番次席二丸留守居謹一郎1000俵高に足高
文久2年5月15日1862年6月12日徒頭謹一郎
文久2年5月15日1862年6月12日留守居番謹一郎時服3枚
元治元年8月13日1864年9月13日大坂町奉行(東)謹一郎
元治元年9月4日1864年10月4日寄合謹一郎辞任
慶応2年12月29日1867年2月3日製鉄所奉行並謹一郎高200俵
慶応3年3月1日1867年4月5日目付謹一郎
慶応3年4月17日1867年5月20日目付筑後守諸大夫
慶応4年1月28日1868年2月21日寄合筑後守御役御免
他に茶渓と号す

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/文久2年)蕃書調所頭取より抜粋

家紋は丸に釘抜

史跡

大塚先儒墓所にある墓碑

命日は明治17年10月31日(1884年10月31日)

蕃書調所跡に建つ案内板