久貝正典

『江戸切絵図』市ヶ谷/安政4年より抜粋、「久貝因幡守」表記区画を正典の屋敷地と推定。家禄は5500石、隠居後3500石→4500石。小笠原長常は実弟

創設から長く講武所を支えた功労者

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
文政10年8月24日1827年10月24日火事場見廻甚三郎家禄5500石
文政13年3月12日1830年4月4日火消役(駿河台)甚三郎
天保6年7月1日1835年7月26日小普請組支配甚三郎
天保7年9月20日1836年10月29日小姓組番頭(一番組)甚三郎
天保7年12月16日1837年1月22日小姓組番頭因幡守諸大夫
天保9年11月20日1839年1月5日書院番頭(三番組)因幡守
天保12年8月30日1841年10月14日大番頭(十一番組)因幡守
安政2年2月5日1855年3月22日大番頭/講武所総裁因幡守
安政2年2月10日1855年3月27日大番頭(十二番組)/講武所総裁因幡守組替
安政3年2月14日1856年3月20日留守居/講武所総裁因幡守
安政5年10月9日1858年11月14日大目付/講武所総裁因幡守
安政5年10月11日1858年11月16日大目付/講武所総裁因幡守留守居上席
万延元年8月12日1860年9月26日側衆河内守大久保因幡守が同役
文久2年10月9日1862年11月30日側衆遠江守井上河内守が老中
文久2年11月15日1863年1月4日寄合遠江守隠居
文久2年11月23日1863年1月12日寄合遠江守差控/2000石減俸、家禄3500石
元治元年7月23日1864年8月24日講武所奉行養翠
慶応元年5月11日1865年6月4日講武所奉行養翠1000石加増、家禄4500石
慶応元年6月14日1865年8月5日講武所奉行養翠

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑(出雲寺/安政4年)』留守居より抜粋

家紋は左三つ巴

花押

[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[1],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552686 (参照 2024-08-03)

史跡

白泉寺にある墓碑

命日は慶応元年6月14日(1865年8月5日)