『江戸切絵図』小川町/嘉永3年より抜粋、「鵜殿甚左エ門」表記区画を長鋭の屋敷地と推定。家禄は300俵。同企画は慶応元年の『江戸切絵図』では「鈴木大之進」(鈴木重嶺)表記となっている
日米和親条約における日本側調印者の一員
役職通称変遷
和暦 | 西暦 | 役職 | 通称 | 備考 |
---|---|---|---|---|
文政8年12月7日 | 1826年1月14日 | 小納戸 | 吉之丞 | 高300俵 |
文政12年6月1日 | 1829年7月1日 | 西丸小納戸 | 吉之丞 | |
天保8年4月2日 | 1837年5月6日 | 小納戸 | 甚左衛門 | 肝煎、奥ノ番 |
嘉永元年9月15日 | 1848年10月11日 | 目付 | 甚左衛門 | 勝手掛、海防掛 |
嘉永6年5月7日 | 1853年6月13日 | 目付 | 甚左衛門 | 朝鮮信使来聘用掛筆頭 |
嘉永6年12月17日 | 1854年1月15日 | 目付 | 民部少輔 | 諸大夫 |
嘉永7年1月15日 | 18542月12日 | 目付 | 民部少輔 | 米使応接掛、浦賀派遣 |
嘉永7年3月3日 | 1854年3月31日 | 目付 | 民部少輔 | 日米和親条約調印(全権) |
嘉永7年7月24日 | 1854年8月17日 | 目付 | 民部少輔 | 軍制改正掛 |
嘉永7年10月30日 | 1854年12月19日 | 小普請奉行次席目付 | 民部少輔 | 高2000俵に足高 |
安政2年12月9日 | 1856年1月16日 | 小普請奉行次席目付 | 民部少輔 | 城内修復御用掛 |
安政3年8月17日 | 1856年9月15日 | 小普請奉行次席目付 | 民部少輔 | 朝鮮信使来聘用掛 |
安政3年11月15日 | 1856年12月12日 | 小普請奉行次席目付 | 民部少輔 | 婚礼御用掛 |
安政4年4月18日 | 1857年5月11日 | 小普請奉行次席目付 | 民部少輔 | 調練場築造御用掛 |
安政4年8月14日 | 1857年10月1日 | 小普請奉行次席目付 | 民部少輔 | 米総領事上府御用掛 |
安政5年1月27日 | 1858年3月12日 | 小普請奉行次席目付 | 民部少輔 | 琉球人参府御用掛 |
安政5年2月19日 | 1858年4月2日 | 小普請奉行次席目付 | 民部少輔 | 蘭理事官参府御用掛 |
安政5年3月22日 | 1858年5月5日 | 小普請奉行次席目付 | 民部少輔 | 軍艦操練及大船製造掛 |
安政5年v5月20日 | 1858年6月30日 | 駿府町奉行 | 民部少輔 | 席次足高是迄通 |
安政6年9月10日 | 1859年10月5日 | 小普請組 | 鳩翁 | 御役御免、隠居、差控 |
文久2年12月9日 | 1863年1月28日 | 浪士取締役 | 鳩翁 |
屋敷地推定
武鑑記載家紋
『大成武鑑』(出雲寺/安政6年)駿府町奉行より抜粋
家紋は丸に三ツ石
花押
[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[1],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552686 (参照 2024-08-04)
史跡
長応寺にある墓碑
命日は明治2年6月6日(1869年7月14日)