『江戸切絵図』小川町/嘉永3年より抜粋、「石河土佐守」表記区画を政平の屋敷地と推定。家禄は2700石→2000石。同区画は慶応元年の『江戸切絵図』では「平岡石見守」(平岡頼徳)表記となっている
役方要職を歴任して側衆まで昇進
役職通称遍歴
和暦 | 西暦 | 役職 | 通称 | 備考 |
---|---|---|---|---|
文政2年12月27日 | 1820年2月11日 | 中奥番 | 金之助 | 高2700石 |
文政10年8月8日 | 1827年9月28日 | 徒頭 | 数馬 | |
天保2年9月10日 | 1831年10月15日 | 西丸目付 | 数馬 | 筆頭 |
天保6年7月1日 | 1835年7月26日 | 目付 | 数馬 | |
天保9年2月8日 | 1838年3月3日 | 京都町奉行 | 数馬 | |
天保9年3月28日 | 1838年4月22日 | 小普請奉行 | 数馬 | |
天保9年12月16日 | 1839年1月30日 | 小普請奉行 | 土佐守 | 諸大夫 |
天保12年5月13日 | 1841年7月1日 | 作事奉行 | 土佐守 | |
天保14年9月20日 | 1843年10月13日 | 勘定奉行(公) | 土佐守 | |
天保15年8月28日 | 1844年10月9日 | 勘定奉行(勝) | 土佐守 | |
天保15年8月29日 | 1844年10月10日 | 勘定奉行 | 土佐守 | 本丸普請掛 |
天保15年9月1日 | 1844年10月12日 | 勘定奉行 | 土佐守 | 朝鮮信使来聘御用掛 |
嘉永5年5月27日 | 1852年7月14日 | 勘定奉行 | 土佐守 | 西丸普請掛 |
安政2年8月9日 | 1855年9月19日 | 留守居格一橋家老 | 土佐守 | |
安政4年6月22日 | 1857年8月11日 | 側衆 | 土佐守 | |
安政5年4月18日 | 1858年5月30日 | 側衆 | 土佐守 | 御用取次 |
安政5年7月6日 | 1858年8月14日 | 寄合 | 土佐守 | 御役御免 |
安政6年10月27日 | 1859年11月21日 | 土佐守 | 700石召上、隠居、急度慎 |
屋敷地推定
別地屋敷地
『江戸切絵図』小日向/嘉永3年より抜粋、「御勘定奉行御役宅 石河土佐守」表記区画を政平の屋敷地(勘定奉行役屋舗)と推定。同区画は万延元年の『江戸切絵図』においては「御勘定奉行 山内下野守」(竹内保徳)表記となっている
武鑑記載家紋
『安政武鑑』(須原屋/安政5年)側衆より抜粋
家紋は対い鶴
花押
[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[1],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552686 (参照 2024-08-03)