池田頼方

『江戸切絵図』箕輪/嘉永6年より抜粋、「池田播磨守」表記区画を頼方の屋敷地と推定。家禄は3000石

安政の大獄の五手掛の一人

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
天保3年8月17日1832年9月11日火事場見廻隼人
天保4年9月19日1833年10月31日寄合肝煎隼人
天保7年9月20日1836年10月29日西丸目付隼人
天保8年11月1日1837年11月28日浦賀奉行将監
天保12年9月24日1841年11月7日奈良奉行将監高3000石
天保12年11月15日1841年12月27日奈良奉行播磨守諸大夫
弘化3年1月11日1846年2月6日普請奉行播磨守
嘉永元年11月8日1848年12月3日勘定奉行(公)播磨守
嘉永5年3月30日1852年5月18日江戸町奉行播磨守
安政4年5月22日1857年6月13日留守居次席江戸町奉行播磨守
安政4年12月28日1858年2月11日留守居次席大目付播磨守海防掛
安政5年2月2日1858年3月16日留守居次席大目付播磨守鉄砲改
安政5年10月9日1858年11月14日留守居次席江戸町奉行播磨守
安政6年2月3日1859年3月7日留守居次席江戸町奉行/勘定奉行(公)播磨守
安政7年3月4日1860年3月25日留守居次席江戸町奉行/勘定奉行播磨守桜田事変吟味掛
文久元年5月26日1861年7月3日寄合播磨守辞任
文久2年10月24日1862年12月15日寄合肝煎播磨守
文久2年11月13日1863年1月2日寄合播磨守御役御免、差控
文久3年10月8日1863年11月18日寄合肝煎播磨守
元治元年7月2日1864年8月3日書院番頭(一番組)播磨守
元治元年7月6日1864年8月7日江戸町奉行播磨守
元治2年2月21日1865年3月18日留守居次席江戸町奉行播磨守
慶応2年6月29日1866年8月9日寄合播磨守

屋敷地推定

屋敷地跡に建つ案内板

別地屋敷地

『江戸切絵図』小川町/嘉永3年より抜粋、「御勘定御奉行役屋舗 池田播磨守」表記区画を頼方の屋敷地(勘定奉行役屋舗)と推定。同区画は安政7年の『江戸切絵図』では「御勘定御奉行 酒井隠岐守」(酒井忠行)表記となっている

『江戸切絵図』大名小路/安政7年より抜粋、「南町御奉行御役屋敷 池田播磨守」表記区画を頼方の屋敷地(南町奉行役屋舗)と推定。同区画は嘉永2年の『江戸切絵図』では「南町御奉行 遠山左衛門尉」(遠山景元)表記、文久3年の『江戸切絵図』では「南町御奉行所 佐々木信濃守」(佐々木顕発)表記、慶応元年の『江戸切絵図』では「南町御奉行所 山口駿河守」(山口直毅)となっている

『江戸切絵図』大名小路/慶応元年より抜粋、「北町御奉行所 池田播磨守」表記区画を頼方の屋敷地(北町奉行役屋舗)と推定。同区画は嘉永2年の『江戸切絵図』では「北町御奉行御役屋舗 井戸對馬守」(井戸覚弘)表記、安政7年の『江戸切絵図』では「北町御奉行御役屋敷 石谷因幡守」(石谷穆清)表記、文久3年の『江戸切絵図』では「北町御奉行 阿部越前守」(阿部正外)表記となっている

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/嘉永2年)勘定奉行より抜粋

家紋は揚羽蝶

花押

[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[1],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552686 (参照 2024-08-04)