朝比奈昌広

『江戸切絵図』下谷/文久2年より抜粋、「朝比奈甲斐守」表記区画は実父朝比奈昌寿表記だが、同年家督を継ぐ昌広の屋敷地であるとも推定。家禄は500石

日伊修好通商条約を調印した全権

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
弘化3年9月28日1846年11月16日小納戸八太郎甲斐守子
嘉永2年4月23日1849年5月15日小姓(家慶公)甲太郎
嘉永4年12月16日1852年1月7日小姓山城守諸大夫
嘉永6年9月22日1853年10月24日小姓(家定公)山城守
安政5年7月11日1858年8月19日中奥小姓山城守甲斐守倅
文久2年11月7日1862年12月27日中奥小姓伊賀守家督
文久3年5月8日1863年6月23日歩兵頭伊賀守高500石
元治元年10月11日186411月10日年長崎奉行伊賀守
慶応元年9月13日1865年11月1日外国奉行/長崎奉行伊賀守高500石
慶応元年10月22日1865年12月9日外国奉行/長崎奉行甲斐守板倉伊賀守が老中
慶応2年6月15日1866年7月26日外国奉行甲斐守
慶応2年6月25日1866年8月5日外国奉行甲斐守対伊応接掛
慶応2年7月16日1866年8月25日外国奉行甲斐守日伊修好通商条約調印(全権)
慶応2年8月26日1866年10月4日勘定奉行(公)/外国奉行甲斐守道中奉行
慶応3年3月1日1867年4月5日外国奉行甲斐守
慶応3年5月7日1867年6月9日外国奉行甲斐守江戸外国人居留地取調用掛
慶応3年6月28日1867年7月29日外国総奉行並甲斐守高500石
慶応3年7月4日1867年8月3日江戸町奉行(南)/外国総奉行並甲斐守
慶応4年1月15日1868年2月8日勘定奉行(勝)甲斐守席次是迄通
慶応4年1月28日1868年2月21日寄合甲斐守御役御免

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/慶応2年)外国奉行より抜粋

家紋は左三つ巴

史跡

全勝寺にある墓碑

命日は明治38年8月21日(1905年8月21日)