岩瀬忠震

『江戸切絵図』鉄砲洲/文久元年より抜粋、「岩瀬一兵エ」表記区画を忠震の養父の屋敷地(忠震は部屋住)と推定。昌平黌学問吟味乙科及第(天保14年)。部屋住み切米300俵。林韑(林復斎)は叔父、堀利煕林昇(林学斎)は従兄弟

安政五ヶ国条約すべてに署名する外交官

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
嘉永6年10月8日1853年11月8日徒頭修理
嘉永7年1月22日1854年2月19日目付修理勝手掛、海防掛
嘉永7年7月24日1854年8月17日目付修理軍制改正掛
安政2年1月18日1855年3月6日目付修理下田派遣
安政3年8月25日1856年9月23日目付修理下田派遣
安政3年10月20日1856年11月16日目付修理外国貿易取調掛
安政3年12月16日1857年1月11日目付伊賀守諸大夫
安政4年4月15日1857年5月8日目付伊賀守長崎派遣
安政4年9月13日1857年10月30日目付肥後守松平伊賀守が老中
安政5年1月9日1858年2月22日目付肥後守堀田備中守随従上京
安政5年5月16日1858年6月26日目付肥後守琉球人参府御用
安政5年5月29日1858年7月9日目付肥後守朝鮮信使来聘用掛
安政5年6月19日1858年7月29日目付肥後守日米修好通商条約調印(全権)
安政5年7月8日1858年8月16日外国奉行肥後守市兵衛倅、切米300俵
安政5年7月10日1858年8月18日外国奉行肥後守日蘭修好通商条約調印(全権)
安政5年7月11日1858年8月19日外国奉行肥後守日露修好通商条約調印(全権)
安政5年7月18日1858年8月26日外国奉行肥後守日英修好通商条約調印(全権)
安政5年9月3日1858年10月9日外国奉行肥後守日仏修好通商条約調印(全権)
安政5年9月5日1858年10月11日作事奉行肥後守市兵衛養子
安政5年12月20日1859年1月23日作事奉行肥後守宗門改加役
安政6年8月27日1859年9月23日肥後守御役御免
文久元年7月11日1861年8月16日

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/安政6年)作事奉行より抜粋

家紋は丸に三本杉

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史跡

雑司ヶ谷霊園にある墓碑

命日は文久元年7月11日(1861年8月16日)

本覚寺に建つ顕彰碑のレリーフ

幕府名士小伝(著:木村芥舟)

肥後守岩瀬忠震、初め修理と称す。また伊賀守。天資明敏、才学超絶、書画文芸一つとして妙所に至らざるはなし。嘉永七年、目付に任じ、深く阿部執政(阿部正弘)に信用せられ、海防外交の事をはじめ、およそ当時の急務に鞅掌尽力せざるものなし。講武所、蕃書調所を府下に設け、海軍伝習を長崎に開くがごとき、皆この人の建議経画する所なりといえり。安政四年、合衆国公使(ハリス)と貿易章程を議定し、弁難論詰数旬に渉り、すこぶる我邦に利する所ありと、翌年條約を訂するの時に至り、異議紛然その不可をいふ者多きをもって、政府すこぶる困却し、一日諸侯伯を営中に召し、忠震に命じて時勢やむを得ざるの事情を縷述し、もって諭す所あらしめたりしに、雄弁淊々極て明暢剴切にして、いささかの渋滞なかりしかば、聴く者皆その所置の適当なるを認め、悦服して退きたりとなり。のち外国奉行に任じ、また作事奉行に転ず。儲貳の議(将軍継嗣問題)ありしとき、主として抗議建白する所ありしというをもって厳譴せられて閉居す。文久元年、病に罹りて歿す。天もし假すに数年の寿をもってせば、再び登用せられて、おおいに共驥足を伸べ、国家の為に尽すことあるべしとて人皆惜せざるものなしといえり。