大久保忠寛(大久保一翁)

『江戸切絵図』番町/嘉永3年より抜粋、「大久保右近将監」表記区画を忠寛の屋敷地と推定。家禄は500石

勝の才をいち早く見抜いた慧眼の持ち主

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
天保元年12月11日1831年1月24日小納戸三四郎
天保4年6月1日1833年7月17日小姓三市郎
天保4年12月20日1834年1月29日小姓志摩守諸大夫
天保8年4月2日1837年5月6日西丸小姓(家斉)志摩守
天保12年3月23日1841年5月13日小納戸志摩守肝煎、奥ノ番
天保13年12月27日1843年12月27日小納戸右近将監家督、高500石
嘉永6年9月22日1853年10月24日小納戸(家定)右近将監
嘉永7年2月30日1854年3月28日徒頭(七番組)右近将監
嘉永7年5月9日1854年6月4日目付右近将監
安政3年10月20日1856年11月17日目付右近将監外国貿易取調掛
安政3年10月27日1856年11月24日目付/蕃書調所総裁右近将監
安政4年1月22日1857年2月16日長崎奉行右近将監
安政4年4月15日1857年5月8日駿府町奉行右近将監
安政5年5月20日1858年6月30日禁裏附伊勢守
安政6年2月26日1859年3月30日京都町奉行(東)伊勢守
安政6年6月24日1859年7月23日西丸留守居伊勢守
安政6年8月28日1859年9月24日寄合伊勢守御役御免
文久元年8月29日1861年10月3日蕃書調所頭取伊勢守
文久元年10月10日1861年12月12日外国奉行越中守新見伊勢守が同役
文久2年5月4日1862年6月1日大目付/外国奉行越中守
文久2年5月22日1862年6月19日大目付/外国奉行越中守政事改革用掛
文久2年7月3日1862年7月29日側衆越中守御用取次
文久2年11月5日1862年12月25日講武所奉行越中守
文久2年11月23日1863年1月12日寄合越中守御役御免、差控
元治元年7月21日1864年8月22日勘定奉行(勝)越中守
元治元年7月25日1864年8月26日寄合越中守御役御免
慶応元年2月11日1865年3月8日寄合一翁隠居
慶応4年1月24日1868年2月17日会計総裁一翁
慶応4年2月8日1868年3月1日若年寄一翁

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑(出雲寺/安政4年)』駿府町奉行より抜粋

家紋は大久保藤

花押

[土岐]頼旨 [著]『花押似真』[2],[1—] [写]. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2552687 (参照 2024-08-04)

史跡

本妙寺にある墓碑

命日は明治21年7月31日(1888年7月31日)

肖像

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」 (https://www.ndl.go.jp/portrait/)

出典:岡田霞船 編『徳川義臣伝 : 明治戦記』甲,金松堂,明16.11. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/778458 (参照 2024-06-01)

幕府名士小伝(著:木村芥舟)

越中守大久保忠寛、また右近将監、伊勢守と称す。嘉永七年、目付に任ず。人と為り峻厳忠摯、学識超凡、事に臨て侃々毫も曲従する所なし。外国の事起り、国歩艱難の時にあたり、岩瀬忠震と相提携し事を共にし、力を尽せしが、忠震、常にこの人に語りていう、一頭地を譲りたりと。忠寛、毎に人に語りていう、余は決して他の顕職に就くを欲せず、ただ永く力をこの局に尽すことを得ば足れりと。忠寛、目付より開成所の取扱を命ぜられしが、この頃学生の内より海外留学を命ぜし者あり。一日その者を呼出し学科多き中にも、その方は何学を修業する心得なりやと尋ねしに、その者某は政治学を修むる心算なりといいし時、列席の同僚一書生の身として政治学とは如何あるべきとありしに、忠寛、おもむろにその人に向い大学、論語の書は皆政治学に非ずや、何の仔細あるべきといいしに、その人赤面して辞なかりしとなり。安政二年、長崎奉行に転ず。辞して任に赴かず。のち京都町奉行、講武所奉行に任ず。文久二年、前任中取計方よろしからずというをもって譴責せられ職免さる。同年再び出て外国奉行、勘定奉行に任じ、側用取次にすすむ。井伊大老およびその他を追罸するの議ありしとき、抗言してその不当を論じ、おおいに執政の意にさからい、職罷めらる。戊辰の変、主家の為めにおおいに尽す所あり。山岡の二氏と共に徳川柱石の臣と称せらるるに至れり。