井上清直

『江戸切絵図』番町/元治元年より抜粋、「井上信濃守」表記区画を清直の屋敷地と推定。同区画は嘉永3年の『江戸切絵図』では大熊善太郎(大熊喜住)表記となっている。家禄は200俵。川路聖謨は実兄

対外交渉で重責を担った外国奉行

役職通称遍歴

和暦西暦役職通称備考
弘化4年12月26日1848年1月31日勘定組頭格新右衛門
嘉永6年4月29日1853年6月5日勘定組頭格新右衛門布衣
安政2年1月24日1855年3月12日勘定吟味役新右衛門
安政2年2月2日1855年3月19日勘定吟味役新右衛門下田詰
安政2年4月1日1855年5月16日下田奉行新右衛門高200俵に加増
安政2年4月2日1855年5月17日下田奉行信濃守米艦司令官と応接
安政4年5月26日1857年6月17日下田奉行信濃守日米追加条約調印(全権)
安政5年7月8日1858年8月16日外国奉行/下田奉行信濃守
安政5年7月11日1858年8月19日外国奉行/下田奉行信濃守日露修好通商条約調印(全権)
安政5年7月18日1858年8月26日外国奉行/下田奉行信濃守日英修好通商条約調印(全権)
安政5年9月3日1858年10月9日外国奉行/下田奉行信濃守日仏修好通商条約調印(全権)
安政6年2月24日1859年3月28日小普請奉行信濃守
安政6年11月4日1859年11月27日軍艦奉行信濃守
文久2年8月24日1862年9月17日外国奉行信濃守
文久2年12月1日1863年1月20日江戸町奉行(南)信濃守
文久3年5月20日1863年7月5日江戸町奉行信濃守小笠原図書頭随従大坂派遣
文久3年8月1日1863年9月13日寄合信濃守御役御免
元治元年9月10日1864年10月10日外国奉行信濃守
元治元年11月22日1864年12月20日勘定奉行(公)信濃守
元治元年12月21日1865年1月18日勘定奉行信濃守道中奉行兼帯
慶応元年閏5月16日1865年7月8日勘定奉行信濃守進発御供
慶応2年1月24日1866年3月10日勘定奉行/関東郡代信濃守
慶応2年9月2日1866年10月10日関東郡代信濃守
慶応3年12月28日1868年1月22日信濃守

屋敷地推定

武鑑記載家紋

『大成武鑑』(出雲寺/安政4年)下田奉行より抜粋

家紋は平井桁

史跡

宗柏寺にある墓碑

命日は慶応3年12月28日(1868年1月22日)

幕府名士小伝(著:木村芥舟)

信濃守井上清直、初め新右衛門と称す。川路聖謨の弟なり。人となり簡傲亢爽、自信すること極めて厚く、小吏たりし時より昂然肯て人に下らず。安政二年、下田奉行に任ず。偶米国公使(ハリス)の来るに会し、これと開港互市の事を議し、毎に彼が強大を憑(たの)みて動もすれば我を凌圧せんとするの気炎を折(くじ)き、ついに彼をして深くその言を信じ、海外一好友を得たりというに至らしめたり。安政四年、旨をうけて岩瀬忠震(肥後守と称す)と共に数旬公使と談論して、彼我貿易章程を定む。のち軍艦奉行、外国奉行を歴て町奉行にすすむ。小笠原長行に従って水野痴雲(筑後守忠徳)等と共に上京し、攘夷の不可を論争せしをもって譴責せらる。この人の功業才力の兄に讓らずといえども、世人これを知る者なきは遺憾というべし。